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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

露天商をはじめる

 家が出来て間もなく車で出る仕事も余り無くなったように思う。こうしては居られない。ヨシ何でもやろう。そこで思い付いたのが商売である。早速知人から聞いて露天商の許可をもらった。たまたま義理の姉宅が青果物店であった関係で品物を売らしてもらい何ぼかの賃金を戴くようにした。魚類もあって行商にも出た。しかし、一番恥かしいと云うかよくもやる気になれたと思ったのが初めて夜店に出た時、昭和二十三年(1948)十月十三日と思うが場所は今の嵐山町杉山薬師堂の縁日の晩、りんごを持って出店した。この頃は今と違って寒さも厳しかったように思う。灯りと云ってもまだガス燈(カーバイト)を使ってするもの。又はローソクの光などだから薄暗いし、まったく夜店と云った感じである。地元での商売、自分は恥しさの方が多く感じられたが、客の方は同じ買うなら知っている人がいい。何処も同じ情状のお蔭で随分商いが出来た事も想い出の記憶である。
 二度目は根岸の観音様、そして三回目が小川町中爪の大師様である。此の時は真逆である。現役当時の戦友、彼は二中隊で北支には行かなかったが同郷の誼(よし)みで知り合っていた訳である。その彼が「あっ、権田君ではないか。いや、暫らく。実は二中隊に居た誰々だよ」其の彼が親分株で店割りしていたのである。いいよ、何処でも好きな所に店を出せよ。でも此の辺がいいでと云って場所迄わざわざ教えてくれた。知人ってどんなにか有難かった私の想い出でもある。
 露天は此の位で止め、後は行商だけにした。たまたま終戦時は昔に戻って衣類などは染め替えして使うようになり、一時は其の染料が大人気となった。其の折隣同士だった根岸さんが染料の良い物がある所を知って仕入れてくれたので二人で行商に出る。かなり遠くまで歩いた。しかし其の日暮らしの行商では返済金どころか四人家族の生活にも危ぶまれる状態となった。染料を売りながら反物を延ばす道具も自分で作って売った事もある。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 68頁〜69頁
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