第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
権田本市『吾が「人生の想い出」』
第四部 終戦後
菅谷にも大分馴れた或る日、私を訪ねた人あり。話は代燃車が平沢で故障して動かない。君は代燃に経験あると聞いたので来た。見てくれないかとの事。このように話されては断る事も出来ず、早速承諾して出掛けた。暫らくしてエンジンも始動、車も動いた。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 67頁〜68頁
それ以来話も変って、運転手は居るが車を見るだけに乗ってくれないかとの事に熔接の方も有り困ったと思った。でも熔接の方は若い衆が少しは出来るようになって居り、それではと云う事で次のように話をきめた。難しい修理の時は声掛けてもらう事にして車の方に便乗することにした。二足のわらじ、此の時位困惑した事は無かった。でも結果的には良かったのかもしれない。同じ町内の青木工場であったが知人も多く出来、木工場で働いて居るうち関係者から家を造ってはと声掛けられた。予期しない話である。でも多くの方から応援を得て造る事にした。
それには色々と想い出話がある。取あえず出来る迄の経過を思い出して説明する事にする。私には勿論金は無い。手持ちは当時二百円。一体幾らの家と云うと二万円である。建坪は六畳一間と三畳の間、土間六尺奥行八尺、三畳の間の外に廊下等後で増築する。以上で敷物は古いたたみとむしろを敷く。然らば二万円。だが妻の父が出してくれた。他から借りるのがきらいな父は私達のために立替えてくれたのである。非常に嬉しかった。
話は前後するが土地は妻の実家の裏で、畑地を貸してくれた。初めて持てる自分の家。上棟は昭和二十三年四月二十三日(1948)と記憶する。以来之に報ゆる可く少しでも早く返済する事に努力しようと心掛けた。