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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

岡村かじ屋で働く

 そんな或る日、菅谷のかじ屋(昔からの商売として農具等作って居った通称かじ屋、岡村さん宅)には若い衆が何人も働いていた。戦時中は何事も軍関係にとられていたので農具も余り出来なかったのかもしれない。終戦と同時に田畑用の農具が急に必要に迫られたらしく、其の製作に忙しくなった時だったと思う。どんなはずみか。私がガス熔接の出来る事が知られたので働いてくれないかとの話。早速通って働く事にした。たまたま熔接の道具も少しだが私が引揚げ時戴いた物などもあり、又、岡村さんの舎宅に疎開していた方が酸素会社の人で、其の方面の資材も思ったより早く整ったと云う事である。
 作業の内容だが、以前は全部鉄を焼いて熔かし付けたものだが、能率上やりにくい取付け部分を熔接で付けると云う作業である。こうした数日が続く中、出入りする人達などの話からかじ屋で熔接をすると云う事が広まり、色々の物が持ち込まれた。鉄ビン、釜、鍋、昔で云ったいかけ屋仕事などなど。私も何かをやって人に喜んでもらえる様心掛けていたので、色々と工夫もした。そうしてどうにかやりとげた。又、出来た時の自分の気持ち、此の満足感こそ言葉に云い表わせないほどだった。言葉を返せば敗けずぎらいだったのかもしれない。
 ある日、小川に出張を頼まれ農作業用の水揚げポンプ修理で何処に出しても直らないとか。私にやってみてくれと云われ私独得の方法で使えるようにした。こうした仕事の出来るようになったのも航空廠で覚えさせてもらった熔接技術で彼の飛行機作りに必要な熔接の一部だが教習受けた尊い技術面のお蔭でもあった訳である。初めて私が教習受けた時の教官曰く「机上の計算と技術では違いが有る」事を話してくれた。其の違いのある事を知って作業する事こそ大事な計算と云うのではないだろうか。いずれにせよ技術と云う事は難しい。
 この頃給料は日増しとまで行かないがどんどん変っていた。額に覚えがないがかなりいい線戴けたと思う。若い衆も何時しか一寸した修理位出来るようになり、従って私にも多少の暇があるようになった。
 その頃、仕事の関係もあり菅谷に越す事になる。二度目である。木村さん宅の物置小屋を借りた。障子は私の手作り。夜になると土間にねずみの親子連れも出た?所だったが、こちら親子三人楽しくもあった。リヤカーで運んだ家財道具はまだ少なかった。昭和二十二年(1947)年九月十五日、次女頼子が誕生。忘れもしない大雨で川は大洪水。其の中大蔵の産婆さん宅に自転車で急いだ。そして、翌日月田橋が流されたが、若し一日遅かったら渡る事が出来なかったかもしれない。今はどの橋も整備されそんな心配もいらない。頼子の誕生日は特別で忘れられない。二十二年九月十五日朝七時頃と記憶する。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 66頁〜67頁
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