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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

帰郷後の生活

 それでは引揚後の様子から想い出してみる事にする。前に疎開した妻子は実家(今の嵐山町菅谷)に居たが、今度は私の実家(嵐山町広野)に住まう事にした。たまたま実家には前に述べたが機織した時の別棟があった。そこを改造して住まったが一足先に疎開した兄貴の方に便利の所。私達弟はその奥一間に住む。
 先ず食糧の事だが、先に送り届けた二斗タルの米。愈々手をつける事になる。まさかと思った農家に米は無かったのである。供出に出して作った人もその日の食べ物に事をかき、代用食サツマ・ジャガイモ等ある物で過して居たのかと思った。あの時の米一俵でもいい。確保しておいたらなぁ。しかし少しの米とは云え私達家族も幾日かの日が過ごせた事は無い人達より幸せだった事に感謝しなければならないと今になっても想い出す次第である。
 さて、住まいは出来たがこれから先の生活である。先の事など想像もつくはずがなかった。恐らく私だけではない多くの人達の考えも変りなかったと思う。とにかく戦に敗けたら、男は殺され女は自由にされるなど、此のように思い込まされていた時である。ところが敵が上陸してみると別に変った話は聞かない。一体どうなっているのかそれとなく命に心配もなければ女も自由にされた話も聞かない。そんな幾日かを過ごすうち、よし何かを考えるようになった。世間の人達もそう思ったに違いない。それ故にあの闇市たるものも出来たのではないだろうか。軍の流れ物資や食糧に替えた衣類、アメリカ人から出るチョコ・ガム・タバコ等、なんでも屋の店。又、かしこい人は何処からと無く色々の物を集めて来ては売ったり買ったりしていた。
 そこで私も暫らくした或る日航空廠で働いていた知人が横須賀に居たので何か無いかと思って久し振り訪ねた。ありました。一馬力のモーターである。重量は五十キロ。いや重い事この上もない。しかし、どうにかして持たなくては。そこでリュックに入れて背負った。歩きにくい事でも人間必死の気持ちになれば、いや、ならずには居られなかったのである。彼の所から駅まで割合近かったので大いに助かった。電車に乗る時は片腕にぶらさげて行動した。無事嵐山駅まで着いた。駅から家まではどうして運んだか記憶にない。早速モーターの稼ぎ先も見つけた。現在杉山の人の宅に条件は確か金が一千円にサツマ芋一俵。だが、サツマも苗を取った後の甘藷で十二貫。水に入れると浮いてしまう物。それでも食べ物が無い時である。洗って煮ても味も無い。只満腹感が得られれば良かった時である。今思えば浮浪生活に過ぎない。でも終戦時の日本と云ったらほとんどの人達の生活ではなかったのではなかろうか。当時を想い出してみた。
 現実に遭遇して来た私達自身も今は過去の出来事として忘れかけようとしているが、いや忘れてはならないのである。徴兵で満四年六ヶ月、二十一才から二九才、現役応召此の間十年。三十才、ようやく世帯持つ。だがもっと不幸な人達の居られる事も忘れられない。戦死、戦病死、そして其の人達の遺族の方々。何がそうさせたのか。戦争である。だから絶対に世界平和を願う人々の気持ちを無駄にする事なく、願わくは子孫を再び戦場に送り度くないものである。
 さて、話は変って、外に出て働く前に「サツマあめ」などを作るために、兄貴と二人で「くずカマド」など作ったりして大分アメも作った。そしてそれを知らない店に持って行き売ってもらった。恥かしいとかいやだなんて云っていられなかった時で幾らでもいい。金さえ出来れば。当時の世相であった。今でも想い出す事は和子を背中にねんねこ着てアメを運んでくれた愛妻の姿が終戦時とは云え苦労させた想い出が改めて涙の物語として記憶する次第である。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 64頁〜66頁
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