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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

いよいよ終戦

 二十年(1945)八月十三日だったと記憶する。私は海軍の青年将校(中尉)と講習出の若い運転手三人で福島県の福島市にあった軍工場に出張命ぜられ、代燃車(トラック)に薪を積んで出張した。どんな用事だったか解からんだったが、翌十四日は一日当工場に居って近くのりんご園で青いものだったかを買い入れたり炭も何俵かも買った。それを「トラック」に積んだがボデーから余り高くならないよう将校から指示され、荷造りなどをしていた。又、友人で菊地さんの実家が山形の米沢で福島の駅から一つ先だったから立寄ってくれ、そしてブドウ酒を貰って来てほしいとの伝言を実行したが大変だった。駅に行った時空襲になり、余程戻ろうかと思った。でも行って来られたが今でもあの時の行動は忘れられない。私としては家人に近況を知らせてやりたい一心からでもあった。だから友人の伝言も実行出来たと思う。
 そして八月十五日。支度も出来上り愈々横須賀に出発。直前午前十時頃だったか、重大放送があるからそのまま待機して居るよう指示された。何事?十二時、それが彼の終戦放送だったのである。無論、放送内容は吾々に解かる文句ではない。しかし、誰からともなく、遂に戦争に負けたと云う事だった。其の夕刻福島を出発して横須賀に向った。此の時の焦りの気持ち、御想像下さい。ハンドル持つ人なら大よそ判断が着くでしょう。ガソリン車なら思うスピードも出ると云うもの。ところが代燃車である。最高速度50キロ。調子良好の時である。アクセル勿論使用するが、チョークに依るエーアの調整もあり、うっかり焦るものならエンスト。代燃車経験者でなければ知らない事でもある。夜通し走って、翌十六日午前十一時頃航空技術廠に着いた。
 話は前後するが、帰りの夜道は燈火管制解除。私個人の判断でした。将校は心配して、アメリカ軍が既に上陸したらしい。暗くした方がいいのではと云っていたが、代燃で走る気持は恐いもの無し。年の関係もあったように思う。燈火管制とは戦時中夜間走る車はヘッドライトに黒いきれをかけてほたるの光のように他から敵機に解からないよう警戒した事を云った。帰りの出来事色々あったが長くなるのでペンを置く。
 さて、横須賀に着いてからの様子は一段と又大変だった。順を追って説明すると、廠内の合言葉は次のようである。陸軍は降伏したが海軍はまだ之から戦うと云うのである。其の意気込みたるや?工場内での作業は一変して一斉に短剣作りと変っていた。驚いたね。其の短剣で上陸する敵と相対するとの事。今考えたら此の上もない幼稚な事。
 しかし、当時の戦況からして我が国には何も無かった。気持ちだけは負けられない。大和魂だったのである。誰がそう思い込ませたのか、神国日本。飛行機に竹槍で向ったりしてね。勝てる訳も無い。此の頃敵機が上空に飛来すると数発の高射砲も撃ち上げられたが余り効果は無かったようだ。
 一方池子にあった弾薬庫からはガソリン車にしたトラック幾台かで横須賀一帯に弾薬配備の仕事もあった。若い運転手活動、そして敵の上陸に備えたと云う訳である。
 しかしこんな騒ぎも何時しか次の行動に変っていた。敵の上陸が早かったのだろう。明け渡しの準備に変ってしまったのである。幹部の一人だったと思う。曰く、追浜から逗子までトラック一台行ってくれないか。一万円出す。そんな話に気の小さい私は、その仕事に返事も出なかった。出なかったと云うより恐いと思う方が先立っていた。当時の給料一ヶ月七十円だった。終戦になって使える金だろうか。色々考えさせられた。敗戦断末魔の一節である。
 では米軍が上陸する前まで私達が行動した様子も想い出してみる事にする。とにかく自動車教育班に居た関係で仲間にたまたま海軍出の人が居り、此の話は前に述べた通り彼は海軍に長く勤務していたので顔がかなりきいていた。だから横須賀終戦同時追浜航空隊に行き、航空ガソリンをドラム缶数本戴いて来た。そして幾台かのトラックに一本ずつ積んだ。代燃からガソリンキャブに取替え、次の行動に移った。
 私も一緒に行動した時もあったので、特に想い出の一つを紹介する事にしよう。まだ敵の指令が伝わらないうちだったので、あの厳しかった横須賀海浜団の営門も敬礼一つで往来出来た。と云うのも吾々も軍属で海軍のマーク付の車であった関係が大いに役立ったと云う事にある。やはり彼は海浜団でも顔がきいていた。米カマス入り数十俵と砂糖も少しは戴いて来たと思う。そして彼は二俵位確保した。私にもと云われたが、自分は農家生れ、帰ればどうにかなると思い込み、たまたま二斗ダル一パイだけ戴いた。其の時のタル今もある。想い出の米が入れられて私達家族の命をつないでくれた尊い物であった事忘れられない。いや忘れてはならない。あの時である。
 一旦話を変えて、残った米の始末について説明しよう。キープした米以外は私達が朝に夕に往復した追浜駅前通りの人達に全部分け与えてしまった。食糧難の時である。此の時位喜ばれた事は無かった。終戦時のねずみ小僧とでも云うか?(笑)
 そして日々の行動にも特に指示する人も居なくなってしまったように思う。そんな或る日、私達も家財の疎開と云う事を計画した。たまたま私達の方から秩父で一人、嵐山から私、松山一人、計三人居った。そこで荷物を積み合せて横須賀出発。運転は交代で秩父、嵐山、松山の順に荷物を降し、再度横須賀に向って帰る折、陸軍のトラック現役兵三人乗車と出会った時の出来事である。場所は二五四号、東松山市から川越に向って間もない所に橋あり。其の所に近づいた時対向車一台、陸軍のトラックが見えたと思う間もない一瞬の出来事が起きた。私は驚いた。たまたま私はトラックの荷台に居て此の起り得る様子を始めから見て居たからである。私達の車が此の橋に進入した時、相手の車を待つ事なく進入。しかし二台は無理。直感した矢先、橋の上流に「ジャボン」。荷の上に居た兵も川の中。又運転手と助手台に居た下士官二人もはい上って来た。怪我は下士官一人で済む。しかし歩けたので近くにあった産婦人科医で手当をしてもらったと思う。其のトラックには食糧が積んであったが余程忙しい疎開品だったかも知れない。車はそのまま応援を得るとの事で別れる。終戦時の出来事。相手はかなり慌てていた様子だった。
 尚横須賀に戻った所、軍関係の書類等焼却するようにとの伝達あり。私も軍隊生活の書類中、履歴書等総て焼却してしまった。誠に惜しい事をしたと思うが、後の祭り。有ったとしても今では余り用をなさないのではなかろうか?こうして居るうちアメリカ兵のジープが街の中を走るようになった。もう吾々も居るわけに行かず我が故郷に引上げたと云う訳である。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 60頁〜64頁
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