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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

大空襲

 二十年(1945)二月十六日、十七日にかけ大空襲が行われた。話によれば艦載機延べ二千機とアメリカの誇ったB29が五百機。此の時の状況は言葉に云い表わせない恐怖感と、ともすればどうにでもなれと云った諦めの状態でもあった。其の時の様子を記憶にたどって説明する事にする。
 二十年二月十六日、まだ夜明け前。急に空襲のサイレンが鳴った。又空襲か位にしか思っていなかった所が、付近がなんとなくさわがしくなった。其のはず。要塞地帯の横須賀の上空は一斉に砲撃が開始され、飛行機がとんぼでもあるかの如く飛び交していた。曳光弾(えいこうだん)(火を吹きながら飛ぶ弾の事)によって良く解かった。夜がだんだん明けるに従い、機体もはっきり見える頃ともなれば相手もよく見える事になる。そこで、土塀を境に飛来する機に見破られないよう敵の行動を伺っていた。此のような状況下では前にも述べたが恐いと云うより、どうにでもなれと云った言葉が的中するのではないだろうか。そして一先ず空襲が終ったかに思った所、昼近くになった頃B29の大編隊が再度横浜市内上空に現れ、爆弾投下を始めた。とにかく次から次と編隊飛行が現れては爆弾の投下。其の時の音と云うか耳に聞こえて来る様はまるで夏の大雨が降って来るようにサアーと聞こえるのである。其の度に黒煙が昇って一瞬にして横浜の市内は灰と化したのである。
 尚、別の空襲時だったと記憶するが其の時の様子も思い出してみる事にする。
 杉田駅から横須賀に向って湘南電車が走っていたが杉田・湘南富岡・金沢文庫の順私達は追浜駅であった或る日、たまたま富岡駅に電車が入り、横浜に向っていた時空襲となり、近くに有るトンネルで電車は避難した訳である。此の時、なかなか空襲も来なかったらしい。そこで退屈した乗客はトンネルの外に出て日向ぼっこをしたとか。此の富岡には銃機の砲身を作る工場あり。敵も之を知ってか音も無く低空で飛来し、数百とも云われた爆弾が投下された。助かるはずは無い。散乱した人間の残酷の様子は知る余地もない。私達は夕刻になって帰途。初めて知ったが現場にはまだ血の水たまりがあった。そしてあの線路がアメの様に曲りくねっていた恐しさをしみじみと知らされた。帰宅の途、今思い出してもぞっとする。戦争はほんとうにいやだ。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 57頁〜58頁
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