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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

親子三人でアパート暮らし

 この年十九年(1944)八月二十三日、長女和子が嵐山町、当時「菅谷村」にて出生する。出生間もなく上京するのだが生まれるまでの様子を後で色々と話で聞かされたが、女の人は大変だなあとつくづく感じさせられた。思いやりと云う言葉から感じた私の気持ちでもあった訳である。
 さて、上京は其の年の十一月上旬と記憶する(妻の記憶から)。それ以来、杉田のアパート芙蓉荘にて親子三人で暮らす。水いらずと云いたい所だが、戦争は益々激しくなるばかり。食糧難の時でもあり、又、物資も何も無いと云った所、一例を挙げてみる事にする。私達が世帯を持つ時は結婚式も出来ない。だから有る物を持ち寄りと云った所。そこで私の母は此の時にと座布団二枚を作るのに幾らかの畑から得た綿で作り、私達にくれた。ところが、一枚は火薬作るから献納するようにと、間もなく徴集させられた。そこで妻は残りの一枚を薄くし、二枚に作り直し二人で使用した事など、今は想い出の一つ。このような戦時中の苦労は決して無駄にする事も出来ない過去である。
 しかし、恵まれた点は官廠勤務であった事にあるのだが、今になって思う事は何時の世でも上にある「地位」の高い生活をしている人こそ何も不自由が余り感じられないのではなかろうか。私達は軍工場で働いて居ただけなのに美味しいものまでとは行かなかったが、食べ物に不自由しなかった点、それに輸送関係に従事して居た事もあろう。
 此の程度の事はほんの一端にすぎない事で、現在のように一般国民が何不自由なく暮らせる世の中とは云え、税金を納める立場にある国民と之を国のために使う立場の政府とでは、どえらい違いがあると思う。ニュース等聞いても政治献金とか、何々の仕事での収賄事件等々。結局は自分の腹を暖める可く下心と云うか、いづれにしても余り何も知らない吾々でも疑いたくなる現在の世の中であるように思う。とにかく正規のルート以外の税金が動いてこそ聞きにくいニュースとなるのではないだろうか。だから選挙の時こそ良く考えて「人選」投票は如何に大事であるかを考えるべきだと思う次第である。
 話が大分それたが、隣組から配給された外米(細い米)などほとんど口にする事なく物々交換に使った事想い出す。配給と云っても多分にある訳でも無い。親子三人分である。此々で配給の事、一寸説明するが、当時大人でない赤んぼでも米のような物は一人前として配給受けられたと思う。其の米を妻が持って、一山越した農家に行き、野菜と取替えたり、或る時は逗子の海岸に行き、魚と取替えたりした。又、当時の様子は愛妻が知っている。私の記憶としては、長女和子を背負って歩く妻の姿を想い出す位である
 。さて此のようにして三人共なれば部屋も四畳半では狭く、たまたま一階の端に居た山田さんと云う海軍出の人に召集が来た。そして奥さんは子供も居たので実家に帰るとか。其の部屋は六畳有り。其の後を借りる事が出来た。狭い所から広い所に世帯持ったばかりの気持ち、御想像に任せます。
 此々で当時の横浜杉田の様子を少し想い出してみる事にする。杉田は海岸に面して市電が通り、その終点でもあった。道路の延長は横須賀方面に続き湘南電車が並行して走っていた。引潮の時など沖の方まで行かれ、海苔も取れた。又、海にうなぎも居て、同じアパートに居た菊地さん(山形の人)はたくさん捕えた事もあった。其の後足を運ぶ事無く、人の話によれば海岸も大分埋められ、広い道路にもなっているとか。十年一昔と云うが、もう四十年余である。懐しくも感じられる今日此の頃でもある。
 そんな当時の歳月は何時しか和子が生れ、上京した昭和十九年(1944)も暮れて、昭和二十年を迎えた。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 55頁〜57頁
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