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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

第二トラック班

 自動車の講習も十九年(1944)五月には終って居たように記憶する。講習生には全員海軍免許の他に神奈川県庁の免許も取得させた。女子は四名、終戦後大いに役立った事、後で知る。これ等、若い運転手を使って第二トラック班として発足。要するに空襲が激しくなり、分散の意味からでもあった。
 此の頃、下請工場が名古屋にあって、其の工場に材料を送り届けるのだが、急を要する品物のため二人の運転で交替、食事も運転台で摂りながら直行した。強行軍作業は軍工場らしかった。此の頃の車の性能は今と違って決していいものでは無かった。少し無理すれば故障する。特にラヂエータとかメタル溶けなどだから修理道具と部品持参である。私は修理の方も少しだがやって居た事と講習時が自分にも勉強になって大いに役立てられた。だから名古屋出張の時、先発として推薦された。
 とにかく東海道と云えば昔から箱根山を始め数多い峠があって、自然車にも無理が考えられるわけである。しかも、行きは休まずである。其の代わり帰りは少々のんびり出来た点、いいところもあった。特に、岡崎でラヂエータが故障したので修理した時など、一泊して芝居見物にも行ってみたが、客は六〜七人しか入って居らなかった。辺り田舎町ではあったが、戦時中で入る人もほとんど無いとの事だった。想い出の一つである。苦労もしたがね。私が三十才の時だった。
 又、帰りの日、沼津の町でコタツヤグラ購入。相手は柱時計を買った。たまたま此の日、朝のおかずから三食ブリの一日。旅館で朝、昼は相手の奥さんが小田原が実家。昼食に立ち寄ってブリ、帰宅が夕食に愛妻のオカズがブリ。忘れるどころか想い出します。此の一日、此のようにして何台かが名古屋まで往復した。尚、普通の作業は講習の終った若い運転手。男子の方は私達と行動を共にした。女子の方は乗用車専門部に勤務。女の運転手と云う事で大そう人気があったように思う。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 54頁〜55頁
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