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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

疎開電車

 さて、此の頃和子も成長して座っていられるようになり私が帰るのを待って小さな手で合掌して喜んで迎えてくれた頃でもあった。しかし、空襲の話など二人でしても子供に取っては知る余地もない。無邪気な我が子の姿を見るにつけ、複雑な気持ちの中に疎開と云う事を考えたのである。そこで其の四月、暇を貰って休み、私を残して疎開する事にした。上司も快く暇をくれたので、早速荷物をまとめ、帰郷する事にした。取敢ず荷物は行李(こうり)二つ。中味と云ってもたいした物はない。赤んぼの「オムツ」と下着。他は親の物だが昔の着物である。何日だったが記憶にないが、朝杉田出発九時頃、池袋のホームに立ったのである。
 此々で当時の電車を説明しないと解からないので思い出してみる事にする。電車と云っても貨物車と云った方が解かりいいかも知れない。座席は取り外してあって、中は只の箱である。そして電車がホームに入ると元気のいい連中は男だろうが女であろうが戸扉の開く前に窓から飛び込んで行く。そして家財道具の机、本箱、その他色々の物を力まかせに押し込むのだから、到底普通の人が赤んぼうを背負ったりしたら尋常の気持ちでは乗れるはずがない。私達親子三人は夕刻まで池袋のホームに居て此の様子を見つめていた。それと同時にどうしたら乗る事が出来るかも研究した。一寸オーバーな云い方かな?でも世の中は無情だった。誰も手伝って乗せてくれる人は居なかった。そこで私は考えた。必ず電車の停止する位置がある。そこに二つの行李を並べて置き、直接他の人が入れないようにした。そして其の内側に和子を背負った妻を入れ、ドアが開いたら向うの角に立つよう指示した。絶対に乗るのだ。その気がまえで居る中、電車がホームに入った。予定の行動が開始された。奥の角に立つ可くすかさず二つのコーリを其の足もとに置き、押されないようにした。そして上の方は私の腕で支えた。先ず夢中での行動とはこんなものだったかも知れない。疲れる腕も片方互い違いにしながら、何時しか松山まで来て、初めて両手をさげる事が出来た。此の苦しみも戦争がそうさせたのだ。和子の疎開した時の想い出の一節である。
 其の後私は一人杉田に戻って勤務した。車の関係だが、輸送の方は余り出なかった。出なかったのでは無く、他の仕事が有った。代燃時代のため如何にしたら車がうまく走れるかなど、熔接の心得があったので他の人と業者から入れられた窯をさらに分解したりして、研究まがいの仕事などやっていた。要するに薪の燃料だが少し油断するとタールが出来てエンジンが始動困難になる。だからタールがエンジン部に少しでも行かないようにと苦心した当時である。
 此の頃戦争は日々激しくなるばかり。色々のうわさも流れるようになっていた。世界に誇った帝国海軍も海に居らず岡上りしているとか、敵の爆撃で既に全滅して居ったのかもしれない。しかし神国日本は絶対に負けない。必ず勝つのだ。勝てる。国民は皆そう信じ込まされていた。ところが現実の戦況は違っていたと思える話さえ流れていた。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 58頁〜60頁
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