第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
権田本市『吾が「人生の想い出」』
第三部 青年時代
やがて太平洋戦争の方は日増しに激しくなり、従業員にも召集が来るようになった。特に運転手に多く来たので車の運転に困って来た。そこで今度は運転手作りも始められる。既に徴用で色々の人が来て居った関係で従業員の中から募集する条件は女子又は十八才以下の召集されないような人達を目標に人員数は三十人、一期間三ヶ月だったと思う。そして自動車教育班と名付けられ、廠内でも随分有名になった。なぜかと云うと、もともと軍の仕事。総務部長は海軍少佐、其の人直轄で運営されて居り、だから教官、主任も海軍出の兵曹長。他は陸軍出五人。私も命令で教育班に廻され教官の一人となる。とにかく軍隊式の教育で実施されたのだが、私は此の時位悲哀を感じた事は無かった。二度と軍隊教育はやりたくない、そう思って居ったからだ。しかし命令では已むを得ない。生計を立てる上に於いて其の一員として働いた。私は昭和十七年(1942)、今の愛妻と結婚して世帯を持って居たのである。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 52頁〜53頁