第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
権田本市『吾が「人生の想い出」』
第三部 青年時代
昭和十五年(1940)十二月進級、陸軍砲兵軍曹。当時現役兵は進級も六ヶ月だが吾々召集兵は一ヶ年余でようやく進級である。そして平穏の連隊には以前編成されて大陸に渡った兵隊が時折還って来ては召集解除になっていた。こうなると自分達も解除になりたい、そう思う毎日だ。だがやがて二度目の誕生日、桜の花も咲いたが昨年に見た花のようには考えられる事も無くすぎて三度目の夏が来た。半ばあきらめようと思った矢先、昭和十六年(1941)九月三十日、ようやく召集解除の命令が出た。現役で還る時と違ってそんなにさわぐ事もなく、又盛大なる除隊風景も余り見られなくなった頃であり、喜んだ事は確かだったが当時の様子は余り記憶に無い。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 50頁〜52頁
召集解除は同時応召になった三人で、全員材料廠勤務前に話した教育にも参加していた。一人は横浜、一人は横須賀で自分は横須賀の戦友の紹介で海軍航空技術廠に就職した。これには理由があった。たまたま彼の知人が航空廠に居た事と軍の工場で召集延期も少しは効果ありとの点である。血気にはやった現役当時とは心身共に考えにも変って来た頃である。戦友もそう言葉にも現わして居た。最も彼には妻子が居たが自分でも決して戦争なんて行きたくない、そう思うようになったからである。
いずれにしても就職が決まり総務部の自動車修理班に入った。修理の経験はないが職を覚えるため希望したのである。
ここで戦時中の航空廠とはどのような所だったか説明してみる。廠長は海軍中将和田操閣下。仕事は海軍の飛行機を作る研究と飛行機も作った。終戦末期には桜花という戦闘機も作り敵の飛行機が上空に見えてから攻撃出来る速さだったと聞いたが使わず終戦となる。従業員は一万人から居て、あらゆる部門の作業が行われて居た。
こうした作業に必要なのが足。自動車が最も必要でバス、トラック、乗用車とかなりの台数があった。とにかく戦時中で物は不足するばかりである。飛行機はガソリンでないと飛べない。そこで自動車には代燃が使われるようになったわけである。種類は薪、木炭、カーバイト、プロパンガス、コーライト等。自分はコーライトには覚えが無いが、他は全部経験して居る。特に何処にでもある薪は一番使われて居た。
終戦になってトラックの無い頃、嵐山町で二年程取扱ったがつい最近のような気がしてならない。もう四十年にもなるがね。現在はスタンドに行き車に乗ったままガソリンを入れて貰い、金を払えば車が動く時代。真黒になった手で車を動かした時代とは雲泥の差。正に時世は移るである。しかし、これ等の苦労を無駄にしてはならない。何も無い戦時中を経験した自分は何時もそう心掛けている。だから貧しい生活の中にも丈夫で楽しい毎日が過せる事で家庭内でも朗らかである。
話は戻って就職から終戦迄の間を想い出してみる事にする。私は戦友の計らいで十日ほど泊めて貰った。寝具から一切お借りしてである。大変迷惑をお掛けしたので済まない事をした。此の間、勤務終了後と休日を利用し、湘南杉田駅近くにアパートを借りる事が出来た。四畳半一室十二円位だったと記憶する。今でも想い出すが火鉢が五十銭。鍋・釜はセト引きと土で出来た物。今のように便利の物が有る訳で無い。これはと思う物は配給制度でなかなか手に入らない。独身の私は自炊でスタートした。
駅には一分とかからないが混む電車には閉口した。しかし馴れたもの。戦時中の車掌は女だったがチョイチョイ置いて行かれたが、私は乗れなかった事は先ず無かった。軍隊のめしは只喰って来なかった(笑)。杉田・富岡・金沢文庫・金沢八景・追浜往復の毎日が続けられた。駅から航空廠に入る迄で万人の従業員が行動する訳で、随分混み合って大変だった。
さて、職場の内容だが、今の修理と違って車の修理と云えば誠の修理で、一つの部品を作って修理すると云うシステム。今思えば考えられない事ばかり、総てがそうであったから当時とすればそんなにも苦にならなかったがね。尚、飛行機を作るにも色々の技術面に分れて居て、其の場其の場の技術養成も実施された。其の一つでガス熔接などあり、実は私も自動車修理班から派遣され熔接見習い。実習一ヶ月一所に見習いしたが、なかなか大変な仕事だった。ニュームの熔接など特に技術を要した。でもお蔭で熔接士の技術を身につける事が出来て、終戦後も大いに役立った事を後に説明させて貰う事にして次に移らせて頂く。