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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

軍隊生活

召集電報

 折りも折り来るものが来た。「召集電報」である。朝五時頃だと記憶する。電文は「明日午後一時国府台野戦重砲兵第七連隊に入隊す可し」である。初めての給料貰ってみない中に……。此の時の気持ち、御想像にお任せします。今まで召集の来た人は一週間位の余裕があった。それなのに自分の場合は今朝来て明日午後一時とは忙しい話。誰に挨拶する暇もない状況。とにかく会社で別れの挨拶。川崎の駅まで友人数人の見送りを受け、一路我が家に帰る。
 たまたま大雨の日、我が部落は当時二十軒あり、そこを一軒一軒歩いて挨拶した。翌日早朝、次兄の付き添いで国府台入隊。その時撮った写真もある。連隊に入ってみると北支帰りの戦友がいた。今回はみんな召集されたのかと思った。召集受けて来た人達も自分達が最も若い方で、他は三十〜四十才の年を増した人が特に多かった。
 急動員である。連隊に入りきれず応召者は松戸の町、民家に数人ずつ分れ、泊めて貰った。自分はお医者さん宅に二人で宿泊させて貰った。約十日位。この間先発隊は戦地に出発、かのノモンハンである。自分の戦友も先発隊に加わった。自分達は再度連隊に入って第四中隊となる。戦闘は決して有利でない様子。第二回目の編成が始められた。この時自分も加わるところだったが、今回は特別の編成を組む事で自分ははずされたらしかった。
 応召受けて間もなく伍長に任官。そして材料廠付きに任命された。理由は技術官士官養成の目的らしかった。他にも一名本科から来る。材料廠にも一名おり、下士官三名と将校一名が世田谷野砲一連隊に派遣、三ヶ月間の教育受ける事になる。一師団管区から集った人員は下士官将校で七十名位いたと思う。教育の内容は兵器を作る会社工場などに行き、専門家の講義など受けたが、吾々の頭では誠に解からない方が多かった。特に無線工場しかり、弾薬作る工場も行った。でも実務を見学しただけでも勉強になった事は確かだった。お蔭で普段行く事、入る事も許されないところまで拝見出来たのである。こうして三ヶ月の教育も卒業して連隊に帰り材料廠勤務となる。その頃部隊の名称が変って東部七十四部隊となる。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 46頁〜48頁
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