第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
権田本市『吾が「人生の想い出」』
第三部 青年時代
除隊後しばらく家にいたが、農作業では退屈したので東京にいる兄の所に出かけた。神田三倉橋のそばだった。その近くに同年兵がいて良く話し合ったものだった。そんな頃、彼の盧溝橋事件勃発したのである。俄かに世間は戦争機運になってしまった。そのはずである。勃発間もなく召集令状が随分来た。吾々の同年兵にも令状の来た話が次から次と知らされた。しかし北支へ行かない人に多く来て、北支帰りはまだ令状の来た話は聞かれなった。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 45頁〜46頁
こうなると新聞ニュースが大変。まず驚いた事が知らされた。ここで前に一旦打切った初年兵との会話の事が現実になるとは驚くのも無理ない。吾々のいた部隊も参戦して初年兵だった誰々が戦死したなど、早くも二、三人の名前が知らされたからである。自分達にも何時令状が来るか仕事にも手がつかない時期があった。
しかし一年過ぎても自分達には来なかった。自分でも色々考えねばならないと思い川崎の日本鋼管に警備員として就職した。どのようにして入ったかは思い出せない。
就職後一年位過ぎたと思う。当時の月給が六十円だったように記憶する。たまたま知り合った人で現場に働いていた人が同じ所で下宿しており話を聞くにつけ、よし自分も応召の事は忘れて働く事を考え、現場に行く事を希望してそのように働きかけた。昭和十四年(1939)六月一日から現場に転職。これで自分も一人前として働きがいありと思った。実は自分の目標があったのだ。自分の生い立ちを考えた時、人には世話にならず二十五才を境に世帯を持つという事に心掛けていた。だが現行時北支派遣ですでに六ケ月もくるってしまったのである。しかも事変中でもあり気の落ちつくはずもない。