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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

軍隊生活

 大陸の夏はかなり暑くなったが、一旦日蔭に入ると誠に涼しい、湿度の関係らしい。移動の時間等思い出せないが途中は無事目的地に着く。どんな兵舎かと思ったら誠におそまつそのもの。赤れんが、平屋、しかも営庭は未完成。自分達で地ならしなどして仕上げる。
 我が部隊とは別に山砲隊も一ヶ大隊入る。結局我が砲兵隊と山砲隊混成で鈴木部隊と呼んだのである。当時我が部隊より先にすぐ隣に並んで戦車部隊と騎兵隊が駐屯していた。そして我が部隊の真ん前が飛行場であった。なるほど総ての条件が整えられていたのである。
 此の頃北支に日本軍は七千人居たという話も聞いた。時局は一触即発の状況に感じられた。だから何時導火線に火がつけられるかもしれない日々が続いていた訳である。
 たまたま十一年(1936)九月十八日の夜と記憶する。非常呼集が掛けられた。全員営庭に出る。中隊長以下の幹部は連隊本部に集合、吾々は次の命令待っていた。まもなくして急遽出動準備である。誰云うともなく今夜「ホウ台」に於て事件勃発、其のため我が砲兵隊も出動す可く準備させられたのだが事件は納まって明方解除になる。
 此のさわぎの前、戦車部隊は早くも出動していたと聞いた。事の起りは面白いような話だが北支には色々の軍隊がいた関係である。部隊と日本軍の小競り合いとなり今にも大きくならんばかりだった事のようだ。ある部隊を日本軍が包囲した所其の他の軍隊に日本軍も包囲された事件だった。
 尚、事件のあった其の夜何時飛来したのか飛行場には戦闘機が十数機待機していた。でも戦闘にならずして済んだ。
 とにかく当時関東軍全盛期いざとなれば満州国から流れ込むかの勢いだった頃である。軍国主義全盛期、たまったものでない。戦をすれば必ず勝つと信じていた時であり、又吾々もそう信じさせられていた。今思えば如何に馬鹿馬鹿しい事に年月を過ごさせられたと思うと残念でならない。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 41頁〜42頁
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