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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

軍隊生活

 さて話は大分それたが其の後山海関勤務の様子を思い出してみる事にする。山海関は彼の万里の長城起点の所と聞いた。海から幾らも離れていない所に天下第一関と云う大きな城門あり、高さも数十米はあったと思う。此々には色々の警備隊の歩哨がいた。当時門を境に北支と満州国である日本軍は通行券無くも通れたが、中国人は券が必要だった。そんな頃御当地に馴れた兵隊は闇を手伝った者もいたとか。あったかも。又出来たとも思えた。
 吾々は馬部隊から機械化部隊になった事で身体自体非常に楽を感じると共に暇の出来た事も事実である。その頃自分他五名だったと思う。機関銃教育の件で命令が出された。然らばどのようにして初めての兵器教育を受けたか。先に話した天下第一関の城門通ると満州国である。たまたま其の近くに独立警備隊の歩兵が勤務していた。そこ迄で毎日通って重機関銃と軽機関銃の操作を教えて貰った。
 要は重砲陣地警備に緊急の必要が生じて来たからだった。砲兵の自分は北支駐屯中は機関銃兵として常に中隊附属に従事していた。ただし部隊の行動時である。普段の勤務等は変りなく全員交代である。
 山海関の町もかなりにぎやかな所だった。しかし日本のように家が並んである訳でなく城壁の中に土で積み上げたような住居である。吾々が勤務し居た近くでも市場が良く開かれていた。そして何でもあったが一寸口に出来る物と云ったら南京豆位。他はうまそうだが衛生面でほしいとも思えなかった。
 此のようにして山海関に三ヶ月位居て、愈々本拠地の駐屯地「トンチーズ」、天津から五、六キロ離れた所に移動する事になる。貨車に火砲も積まれたが「土のう」など積み上げて何時敵の襲撃受けても対向出来る可く準備しての移動、まったく戦闘時と云っても過言ではない程だった。自分は勿論機関銃の側での勤務。駅の区間も非常に長く大陸ってほんとに広いなあーと誰に語るともなく自分一人で溜息を貨車の上から我れに戻った一時も思い出される。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 40頁〜41頁
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