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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

軍隊生活

 部隊は新しく編成され部隊は鈴木頼道大佐、後に中将まで昇級したと聞く。とにかく鈴木部隊は十一年(1936)五月一日、正式には忘れたが三島の原隊を後に一路駐屯地に向う事になる。今まで馬部隊であった自分達は将校乗馬十頭も見させられる事になる。出発時間等忘れたが、軍用列車には馬の車両も繋がれていた。馬は宇品港まで自分達が見たが後はどうなったか解からない。今のように新幹線があるわけでなく、三島から宇品まで二十三時間もかかったように記憶する。
 初めて乗る荷物船三千屯とか随分大きい船だと思った。鋲(びょう)のある自分達の靴で、甲板上は非常に滑って危い。そのため荒縄が用意され各人が靴に巻きつけて上船した。尚、肝心の兵器、重砲*1(十五センチ)は間に合わず、野砲*2(十センチ)カノン砲*3なるものが何時の間にか積み込まれていた。牽引車(けんいんしゃ)もあったと思う。馬部隊が機械化部隊に代った訳で細かい点余り記憶にない。愈々出港、山に生れて育った吾々は外地も去る事ながら大海を渡るも初めての経験である。あの時の気持ちをと今問われても細かい事何一つ思い出せない。ただ外国の地大陸ってどんな所であるのか、果して自分達は何の役目で行かされるのか漠然とした船内での気持ちだった事は思い出される。
 平時と云っても以前から満州事変、山海関事件*4等が起きて居た後で、しかもその山海関に上陸するとの事。無事満期除隊は到底考えられなかった頃である。上陸は五月十日だったと記憶する。此々で言葉を一寸はさむが実は軍隊手帳なるもの終戦の折り焼却させられた関係で細部に渡って説明出来ないのが残念。御了承願いたい。
 上陸第一歩の印象。辺り一面は内地と変る事なく晴天だったと思う。五月ともなれば気候も良く「アカシア」の葉が青々としており、その間に鉄道が引かれていて石炭を積んだ貨車の入替え作業が行なわれていた。此々は貨物の発着所であったようだ。ただ此の作業員の服装だが中国人独得の支度に食事片手に持って貨車の運転する辺り、如何にも大陸的で日本人のように細々しい態度は少しも感じられず悠々としていたように思えた。言葉は勿論解からない。笑って会話を交わした「以心伝心」ね……。
 此々からどのようにして行動したか思い出せないがとにかく山海関の保安隊本部がある城壁の中に中隊は住み、警備隊として一時駐屯する。早速衛兵所が出来て歩哨も立ち勤務は非常に厳しかった。初めて外地に着いた部隊として様子も解からず、何処にでも歩哨が立たされた関係で一日置きの勤務だから、軍事訓練は余り行なわれなかった。落ち付く迄は将校から兵に至るまで緊張していた事確かだった。これらは上陸直後の様子である。
 部隊の居る所には野戦酒保もあった。タバコ初めビールまで販売されていた。品物は内地から送られて来たのだと思った。ゴールデンバット、キリンビール、ほまれ、等色々あった。値段はビール二十銭、バット五銭と記憶する。今まで話が出ずにしまったが軍人の給料を思い出して見ると内地で普通の兵一ヶ月五円五十銭、上等兵で七円五十銭、外地で兵が九円、上等兵が十三円位だったと思う。今の自衛隊とは雲泥の差だね。昔は徴兵、今は志願(希望)ですからね。戦死しないから現在も元気でいられるけれど戦死した英霊には誠に気の毒と云う他ない。再び戦争なんて話だけでもぞっとする。戦争の無い平和な世の中こそ最高の幸せである。

*1:重砲(じゅうほう)…大口径で初速の大きい曲射弾道をもつ大砲。砲全体が重く大きく取扱いは不便であるが強大な砲弾の威力を持ち、堅固な陣地などの攻撃に適する。旧陸軍では口径10センチメートル以上の砲をいい、野戦重砲と要塞砲の二種があった。射程は20〜30キロメートルに及ぶ。
*2:野砲(やほう)…野戦部隊の主火砲。歩兵と協同して戦闘することが多いので、動きが軽快で、多数の弾薬をもち、長射程で、発射速度の大きいことなどが要求される。口径75〜105ミリメートル、最大射程は8〜15キロメートル。馬で引いていたが、第二次大戦ではトラクターやトラックが牽引(けんいん))した。旧陸軍では、三一式、三八式、九〇式、九五式(口径7.5センチメートル)があった。
*3:カノン砲…大きな筒を意味する英語のcannon、フランス語のcanonに由来し、加農砲とも書く。砲身長が口径の20倍以上で、初速が大きく、長距離射撃に適する大砲。
*4:1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突の一つ。1932年10月満洲国警察と山海関守備隊との銃撃戦、12月北寧線列車への山海関城方向から射撃に端を発した銃撃戦、1933年1月1日山海関城外の日本軍、フランス軍、イタリア軍駐屯地の日本軍憲兵所での手榴弾爆発にからの山海関城攻撃、占領をさす。5月31日、河北省塘沽(たんく)において日本軍と中国軍との間に締結された塘沽停戦協定により軍事的衝突は停止された。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 38頁〜40頁
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