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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

軍隊生活

 昭和十一年(1936)一月二十日、自分達が入隊した時と同じように部隊は活気付いていた。自分は一中隊三班の先任上等兵として勤務する。そして初年兵入隊、一ヶ月後一大事件発生。例の二、二、六事件である。二月二十六日の事、東京は三十センチの積雪だったと聞く。三島の方も大雪だった。朝の馬の手入中先に話した旅団長の馬丁が来て昨夜東京で大事件が起き、現在も軍人同士が戦闘中と話した。なんの事か解からないまま。処が間もなくして自分達にも召集がかけられた。直ちに戦地に行かれる支度するよう。「数十人」だった。早速、一装用の支度をして次の命令を待つも、暫らくして解除となる。実は熱海とか湯河原に閣僚が来ており、そこの警備として出動す可く準備させられた訳である。しかし収まって其の必要もなく済んだ。当時の軍隊にはテレビ、ラジオも無く世の中の様子はまったく解からなかった。
 初年兵教育は続けられていた。そして其の四月、第一期の検閲のため富士演習場に行って居た時、またまた命令が降された。第一中隊直に原隊三島に帰営す可し。又何事が起きたのかと思った。実は北支駐屯軍として派遣の大命降下である。愈々自分達も外地に行くのだ。再度生きて帰れるかは予測もつかない時代となっていた。部隊は自動車隊として発足するため、運転要員は先に反乱軍であった国府台野重七連隊【野戦重砲】の兵士と混成となり派遣という訳。
 だから我が中隊の家族には反乱軍で北支に行かされるのではと一時はそう思われたようだ。此の知らせが家族に伝えられ、面会日に来た家族と話してはっきりした事である。何日かの面会期間に自分の所にも伯父と兄が面会に訪れた。入隊以来外泊で一晩家に帰ったのみ、久し振りの対面である。初めの一言は今でも忘れない。「お前が上等兵になれた」と云う事と「護衛所で一中隊の権田に面会と云ったら、ハイ権田上等兵殿ですかと云って歩哨が中隊迄案内して来てくれた」との事。前にも書いたが自分は進級した事を家に知らせてなかった。これは自分なりの考えだが、現役兵の二年間が無事に終った時の楽しみとしてとって居たからである。ところが時局は一変して北支駐屯軍派遣であった。要は既に第二次大戦の下準備でもあったように思われた。
 面会の話だが、我が家から面会に来る迄の出来事を一言思い出したので、話してみる事にする。厳格の家庭の中に女親がわれわれを育てて来ただけに、派遣と云う言葉も単に奉公人が他所へ奉公に行く位しか考えていなかったらしい。だから小遣いの少しも送ればいいと思ったという訳。郵便局に行く可く家を出て歩く中、たまたま妹に会い、何処へと聞かれ、これこれと話した所、馬鹿を云って、二度と帰れるか解からないのになぜ面会に行かない。そこで急きょ変更して伯父と兄の代表二人が面会に来てくれたのである。なぜこんな事を此々で書かねばと思うだろうが、子供の頃から離れて過ごした親子関係ならではである。普通の家庭に育った者だったら先ず親が真先に面会に来るのが常識、どの戦友見ても親兄弟が来て居た。しかし味も無いように育ち過ごした自分にはこんな出来事もあったわけである。でも早くから他人のめしを喰わねばと云われながら過ごした入隊前の生活も軍隊に来て大いに役立ったように思う。お陰でビンタの数も少く済んだのかもしれん……。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 36頁〜38頁
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