ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第三部 青年時代

青年時代

 愈々入隊期到来。昭和九年(1934)十二月半ばを過ぎても家に帰らないため、親が心配して熊谷まで様子を見に来た。薄らに記憶がある。とにかく十年(1935)一月二十日入隊。早くから家へ帰っても日が長く感じるだけ。それより大勢の仲間と好きな仕事で少しでも多く楽しむ方がとしか考えて居らなかった。しかし親から思えば何かと心配も多かったらしい。当然かもしれない。とにかく正月休み中には帰る予定はして居た。
 当時今もそうだが熊谷からは交通の便は悪く、家に帰る時は自転車を借りて往復したものだった。そんな事もあって柿沼君と二人で一案をたて、先輩の運転手にそっと頼んだ。作戦は次の通り。柿沼君は運転がかなり出来たので、彼が運転して私を送る事にした。車は新車で新フォード。しかし無免許。今と違って取締りも余り無かったと云え、かなり大胆な行動だったと思うね。お蔭で私は家まで異状なく帰る事が出来た。
 ところが後日の便りで知った話だが、帰途大沼公園と云う昔にぎわった所(現・江南町須賀広)で車を溝に落してしまい、店に総ての行動が明かになってしまった由。私も悪い事したと思ったが、損得だけの行動でない事は誰しも承知の事、悪く思わないでほしいと願ったものだった。
 さて家に帰り数日後には晴れて帝国軍人として使命された場所に入隊である。其の頃、入隊者のいる家の庭先には祝入営の大きな幟旗(のぼりばた)が立てられていた。だからこの時期に外出して、幟旗を見れば、一目で入営する人が居る事が解かったのである。入隊前には村の在郷軍人の方がわざわざ訪れて軍隊の様子を知らせてくれた事も思い出す。とにかく別世界とも思われる生活に入る訳である。
 一ツ軍人は其の事の如何にかかわらず上官の命は直ちに服従すべし。朕が?…と云われた教訓時代今も思い出す。それを今想像すればぞっとする思い出でもある。*1
 心は早くも軍隊内を想像していた。前に話したが馬部隊である。自分にも馬が使えるようになれるのか一寸心配だった。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 25頁〜26頁

*1:この部分は、「軍人勅諭」と「軍人読法」とを混同した記述になっている。
「一ツ軍人は其の事の如何にかかわらず上官の命は直ちに服従すべし」は、「長上ノ命ハ、其事ノ如何ヲ問ハス、直ニ之ニ服従シ抵抗干犯ノ所為アルヘカラサル事」(「読法」第三条)を、「朕が?…」は、「右の五ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや」(「軍人勅諭」末尾)を筆者は想定していると思われる。軍人読法は1934年(昭和9)11月30日で廃止されている。
 「教訓時代」の「教訓」は、「教練」かとも思われるが不明。青年訓練所や公民学校(夜学の実業補習学校)に、熊谷時代の筆者が出席した記述はない。

このページの先頭へ ▲