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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

 学校卒業後ドラマのように過した二年有余、再度厳しい親元での日々が続き始めた。そんな時誰かの声で熊谷の片創製糸工場に是非との話があった。声かけた人、今は記憶にない。仕事は庭仕事で若い人を三、四人位ほしいとの事。そして話に出た人は近村で知人二人と私、他に一人居た。結局四人で入社する事になる。此の頃の私の親は年も老いて、私達の育ち盛りの時とは大分変って来ていた。さらに卒業後の東京での出来事もあって、それが影響したのか、此の時の就職の条件には余りこだわる様子はなかったと思う。月九円の日給月給と云った事は覚えている。若しお金が必要な時は直接、事務長さんに話して伝票を貰い、会計で現金を貰う仕組だった。前借が無ければ勿論全額が手に入るわけである。
 それでは工場内の様子と吾々の仕事など思い出してみる事にする。製糸工場と云えば全盛期で、蚕の繭(まゆ)をを糸にして、その多くが輸出されて居た時代だった。一日の作業で糸にしたものをそのつど荷作りする人も居て、夕刻にはトラックで熊谷駅まで運ばれた。その運ぶ手伝いが私達の夕刻の仕事であった。当時、トラックはT型フォードと新フォード車の二台。私達は此の頃運転手にあこがれたのである。運転手になれば乙種運転免許でも二十円から二十五円、甲種運転免許だと三十円以上の給料と記憶している。
 日中の作業は交代で、終日庭掃除。これが特にいやだった。少々色気も出る頃、彼女達に見られたくない。そんな時期でもあった。他は職人など入るとその手伝いなどだった。監督も居た。朝集合すると、その日の作業の指示をする。ボイラーも大きいのが二基もあり、二人のボイラーマンが居た。燃料は石炭だから忙しい。寒い冬でも汗を流しての作業である。常時来て居た近くの人、老いても仕事がベテランだった。職場も色々あり、鍛冶屋、パイプ類等蒸気にかかわる修理などあり、その手伝いもさせられた。
 そして愈々糸の原料となる繭の買入れ時期になると戦場のように忙しくなる。季節労務者も数多く見える。又乾燥機もフルに運転され、それ等の修理に私達が当る。時折チェーンの脱線、故障などあって苦労したものだった。乾燥機から出る繭の選別には女の人が近くから数十人、今で云うパートの人達である。時給に関しては知らなかった。知ろうとも思わぬ年頃でもあった。当時、会社で働く女工さんは長野県と新潟方面の人が最も多く、近くの人は少なかった。人員数に覚えはないが三百人位は寄宿舎に居たのかも知れない。正月になると一旦全員帰郷するのだが、駅から郷里に送り出す行李(こうり)の荷物が多くあり、休みが終って会社に戻る時は駅から寄宿舎に運ぶ。運送で忙しい時期であった。会社には大きい病室も完備されて居り、看護婦さんも居た。一寸きれいな人、私達と入社した友人で年上だった一人は、その看護婦さんに片思いした。彼の事一寸思い出した。仕事が大変のためか常時病人も居た。とにかく終日立ち通しの仕事で身体にかなり無理が生じた重労働であったからだとも思う。今の高校時代、昔の女の人は女工さんで働かされた。今思うに随分の違いである。映画説明の文句でもないが時世は移るである。専属の医者も居て毎日薬を取りに行く人もいたが、薬の数もかなりあったようだった。健康そうに見えた彼女達もいかに大変な重労働の毎日であったのか、今改めて知る余地もない。
 さて私達の仕事もなかなか容易でない仕事もあったが、会社と云う所は休日がある。私が初めて経験した事で、又楽しくも思えた。子供の頃から盆と正月、そして物日以外、遊べると云う事もなく過して来たからである。今思い出すにね。花見時期など熊谷の桜堤は当時有名だった。見世物小屋など多く出た。会社でも休日が続くと映画、見世物など入場券を全員にくれて、自由に見物出来た。又御馳走も出た事などとても楽しかった。そして夏になると盆休みあり、新潟娘の彼女達が佐渡おけさなど教えてくれ、踊り明かした一夜もあった事、今は昔の思い出に過ぎない。
 今一つ私の思い出がある。人員も多いだけに精米所もあり毎日米をつく人もいた。吉野さんと云って近くの村の人で、早くから入社して居た人だ。昼休みになると同期入社の若い四人で話に行く。たまたま吉野さんが米俵をいとも軽々と持ち上げるのを見てよしと云う事になり、自分達でも試してみようと思った。担(かつ)げるかどうか四人で争うようになり、結局、昼休みになると精米所通いである。最初は動かすのも大変だったが、練習を重ねる度にかつげるようになった。しかも狭い一升マスの上から「せーのう」と云って俵のはじを持ってである。十八才の十一月半ばと記憶する。力だけでなくテコの応用とでも云う事になる。やろうと思えば出来ない事はない。先ず実行が一番大切。自ずと知った良い経験が勉強になったのである。
 その冬休みに帰郷した折、たまたま米の検査日であった。農家で出来た米を俵にして並べ、検査をして等級をつけて、初めて米の売買になる仕組である。そんな時で近所の人も集って居た。私は米俵をかついでみせた。みんな驚いたと云う訳。其のはず、普通の人ではうまく担ぐのは容易でない。運送屋でもあれば別なのであるが。私は鼻も高かった。やれば出来ると云う事を知って貰いたかったのである。念のため書いておくと、米俵一俵は六十キロ、十八貫だった。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 17頁〜20頁
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