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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

 やがて此の年(1930)の春、四月だったと思う。野には蓬(よもぎ)が青々としていた頃、たまたま一通の郵便が配達された。これが東京の人から私が欲しいとの文面。「いやー、困ったなあ」と心を痛めたが、と云って、親の前に弁解する程の勇気もなかった。悲しさである。実は私が東京に居た時、店に箸(はし)を卸しに来た人だった。母は見込まれての手紙だからと云った。いやいやながら納得して再度行く事にした私の気持ちは、正に断腸の思いでもあった。
 愈々出発の日。当時田舎の土産と云って特別に無く、草餅を持って約束の日一人で嵐山駅から汽車に乗った。小遣いは汽車に乗る片道に二銭、足りない程だった。八時頃出発したと思う。当時は二時間もかかった池袋−嵐山間である。十時頃池袋に着いたように記憶する。暫らく待ったが迎えらしい人は見えない。どう云う事なのか。今のように電話がある訳でなし、私にこれと云って案の浮ぶ余地もなかった。嫌々(いやいや)で上京したのである。むしろ来なければいいと思う程だった。当時池袋駅東口に平和館と云う活動写真館があり、子守りしながら入場した事など今でも思い出す。そんな池袋のホームに茫然(ぼうぜん)として昼すぎまで居た。昼食抜き。持参した餅に手を付ける事なく。大事な土産物である。此の位義理の親子は厳しく育てられた。精神教育がいかに悲しい限りであったにせよ、今の子供達には話にもならない程である。
 愈々私なりに行動開始。やむを得ず家に帰る事にした。しかし来る時持たされた小遣いは、片道の汽車賃に二銭足りないお金でしかない。「よし一区間も歩けば足りる」、そう思った。精神教育は受けたが、考えはまだ幼稚であった。長い区間なんて解るすべもない。だからどの区間でもと思ったから。取りあえず上福岡まで切符を買った。そこで下車。重い土産の餅を手に下げて歩き始めた。履物はセッタ草履りと云ってたたみのようにあまれている。下に木があり金具が打ちつけてあるもので歩くと音もした。歩きにくい事此の上なし。しかし帰りたい一心。疲れるのも忘れ、ようやく新河岸駅までたどり着く。運賃表を見たがまだ二銭足りない。今度は川越まで区間も短いので再度歩く事にした。辺りはたっぷり暮れていた。川越寄りの踏切を通って少し行った時、犬に鳴かれた。私の支度は鳥打ち帽子に縞柄の着物。他から見れば一目で何処かの丁稚小僧という事が解かる。たまたま主人らしい人が出て来て声かけられた。「今時分どうしたのか」と尋ねられた。実はこれこれと話した所、十銭のお金を下さった。うれしさの余り何もかも忘れて、再度新河岸駅にもどり、嵐山駅まで無事に帰れた。
 そして家にもどる足は又重くなった。何と云われるかである。空腹も忘れて今日一日の行動をどう話そうか考える暇もなく、夜遅くなって家の戸を叩いた。第一声が母親の声である。「もとか」、「うん」、低い声で答えた。眠らずに、私の帰りを待ちわびるた母である。実は、私が汽車に乗って出発した後、郵便が配達された。小僧さんは間に合ったからと断わりの文面だったとか。帰りの運賃を持たせず私を送り出した家ではかなり心配して居た様子だった。急に空腹を思い出し、一日持ち歩いた草餅を初めて口にした。
 今考えると只のドラマ位にしか思えぬが、当時の私の心境からすれば……。今も忘れ切れずに思い出されたのである。川越の恩人の情けにお返しする事が出来ないのは非常に残念だが、その代りと云っては申し訳ないが、私から他の方への心遣い(情け)を忘れないよう心がける事こそ、幾分かのお返しになるのではないかと、後に思った。今も思い出す次第である。私の生い立ちの状況から判断しても、当時すぐにお返し出来る可くも無かったのである。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 15頁〜17頁
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