第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
権田本市『吾が「人生の想い出」』
第二部 少年時代
それでは私が店に馴れて来た頃の様子を今少し思い出してみる事にする。当時そばは、もり・かけ十銭時代。安い店では八銭。又支那そばも此の頃多く出始めた。中には日本そばを止めて目白通りに支那そばの夜店で出た人もいるほど。一パイ三十銭。これが一夜に二十、三十と出るのだから店を止めて夜店になる人も出る筈。場所の悪い私の店では少ない時は一日、三円、四円と云う商い。一寸考えられない程の違いである。そこで私の店でも支那そばを作り始めた。材料も当時は自分で作ったから知って居たが今では余り記憶にない。とにかく食べて、うまい・まずい位で終ってしまえばそれまでだが、実際に自分でそばを作ってみるといかに大変かよく解かる。自分がうまければいいのではなく、来る客に喜ばれなければならない。何時の世でも変りないが、研究心がなければ進歩はあり得ないと思う。同じ材料を使って作るそばも叔父さんと私が作ったものでは大分違う。言葉に云い現わす事の出来ない何かがあるのだ。自分なりに考えさせられた。私も意地張りの方である。とにかく作る度に聞いたり、又自分なりの工夫もしてみた。その中何時しか腕の方も少しは上達して来たように思えた。
そんな頃、店によく来た子供つれ。三才位の男の子と四十位の女の人で細かい事は知らなかったが未亡人らしい人だった。此の頃、流行っていた歌に、「一目見た時好きになったのよ 何が何だかわからないのよ 日暮れになると涙が出るのよ……」*1、その子供が可愛い声で歌ったのが印象的だった。奉公に出されてさびしく、夕暮れに泣いた思い出が胸にこみ上げ感情にもろかった。私にはその子の生い立ちに何か通ずるものがあったように思えた。
上京した年の、十一月か十二月。一寸忘れたが其の人が池袋常盤通りに新しくそばやを開店する運びになり、私も手伝いに行かされた。実は叔父さんが援護者の関係でもあった。私も少しは仕事が出来るようになった頃、小母さんも気分的にゆとりが出来たのか、赤んぼをねかすので二階に上るとね込んでしまう。そうなると外から帰った叔父さんが上って行き一戦が交される事しばしば。小母さんも気の強い方だったように思えた。叔父さんは外出と云えば赤提灯に出かけ、留守にする事たまたまだった。又用事のある人がよく来ていたのも覚えている。こんな家の中を知るようになってからは新箱根で料理を食べさせてくれた事もうたがわしく感じ、私の心は傷つき、動揺するようになった。せっかくあこがれて来た東京である。それからは毎日の仕事に面白味も無くなって来たようだったと思う。
半ばあきらめようかとさえ思って居た矢先、突然叔父さんが倒れ帰らぬ人となる。酒の呑み過ぎらしかった。昭和四年(1929)十二月に入ってからの出来事だった。一大事件となる。とにかく葬式は済ませられたものの、残されたのは借金だけだったようだ。店によく見えた人は結局、金を貸した人だった。早速、両方の田舎から上京、親族会議となる。とにかくこの年の年越しそばだけは商売して店をたたむ事にきまり、其の準備に取りかかった。子守りは私の従妹が田舎から来て居た。そば作りは小母さんと私で作り、出前は小母さんの弟が来て手伝った。私も出前もした。弟分は以前にも年越しには来て手伝って居り、馴れて居た点大いに助かった。年越しそばと云えば東京では当時なくてはならない縁起ものの食べものでもあったようだ。帳場の方は田舎の伯父さんがやった。こうして忙しさに追われて大晦日の一夜も終る頃は翌朝の三時すぎだったと思う。かたづけて元旦、これが最後のそばやになるとは到底考えられる可くもなく、新年からは店も開けられる事なく、全員で鴻巣のおばさん宅に一旦引上げた。私達は自分の家にもどった。学校卒業後、第一歩の社会生活がこのようにして終るとは、私なりの心に動揺は大きかった。二度と東京には行きたくないと心にきめた。しかし家には厳格の親が健在、それからの毎日は非常に長く感じられたのである。*1:『愛して頂戴』…作詩:西条八十、作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年(昭和4)発表。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 13頁〜15頁