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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

 学校生活も終り愈々社会に第一歩の時期が訪れた。当時叔父さんが東京の椎名町で日本そば店をやっていた。たまたま田舎に来た時である。私の母の弟であった関係で立寄り、私を小僧にほしいと話が始まり、早速まとまってしまったと云う訳である。条件は前に話した仕着(しきせ)の他に、月七円との事。小遣いも幾らか下さる由。当時田舎の者にして見れば此の上もない、いい条件であり、冨五郎さんも遂に承諾したと云う次第である。しかし行くのは私である。厳しい毎日を送るより離れた所で働くのもいいと思った。それだけしか考えは浮かばなかった。又東京は初めてで、心が引かれたのも事実である。早速、田舎の母の実家の伯父さんにつれられて上京となる。店には臨時に来て居た兄貴分が居り、出前から言葉遣いなど色々と指導受けた。「いらっしゃいませ」はなかなか出なかったね。又片手にそばを持って自転車に乗るなど、当時にすれば軽業師(かるわざし)にしか思えなかった。それを現実に私がやらねばならない。いやいやながらの毎日。でもどうにか出来るようにはなった。
 当時椎名町辺りは畑と田んぼが大部分であったが、日々新築される家が多くあり、上棟には必ずもりそばが使われた。人数も多く四十、五十人分。そんな時は叔父さんが肩にかついで自転車で走った。私にもあの高さに積んで出来るようになるのかなあと思った事、度々だった。それが今の出前はサランラップなるものかけ、つゆがこぼれない。しかも車で配達と来る。時代は正に移るである。
 此の頃、田舎のいとこが麻布連隊に行って居り、しかもあこがれの上等兵で店によく来たのも思い出す。要するに小遣いがほしかった事にある。後で解った思い出の一つである。私は学校卒業当時同級生より小さくとても軍人にはなれないと思っていた。そんな頃、店で働く可愛い小僧さん位に思われていた。だから誰云うともなく近隣の人達から「小僧さん、小僧さん」でとても人気があった。そんな頃、私にも小さな「ロマン」が感じられた。と云うのは近くに風呂屋があり毎日行くのだが、風呂屋の下足番をして居た小娘が私の履物を必ずかくしてしまい、何かと時間を取らされた。初めは馬鹿にしていると思ったが、長い月日の中、くやしくも無くなった。風呂屋の前に店があり欲しかった引出しのついた箱わけて貰った。今は宝のようなその箱が今でも家にある。思い出も深しである。
 こうして何事にも馴れて一年が過ぎる頃、叔父さんは私を連れてお酉様などを案内してくれた。帰りに大塚に初めて出来た「新箱根」と云う大きな料理屋にも案内し、生まれて初めての料理も食べさせてくれる。東京ってすごい所だなあと思うだけだった。そして叔父さんてお金もあるんだなあ、こんな立派な所に来られるのだからと子供心に思った。此の店の話になるが実は私の店の近くで何時も親しくして居た家があった。その家の女主人が「新箱根」で働いていたのである。だから叔父さんは度々立寄ったらしい。私も良く知って居た家でもある。此の一家は特にいい人達だった事、今も記憶にある。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 11頁〜13頁
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