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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

 愈々十九才の春を迎えるに当り、男子としてどうしても受けねばならない徴兵検査の事である。私達奉公人はその準備として着て行く着物であるが、私は友人の柿沼君と二人で作る事にした。彼を一寸紹介すると今の滑川町出身である。島子さんと云って長野から来た人。現在の奥さんと一所になり、今も熊谷でトラック会社を経営して立派に過ごして居られる様子。御無沙汰して居るけれどね。当時会社に出入していた八木橋店で買う事にした。反物は丈物とか云って、着物と羽織の出来るもの。そこで二人の中、一枚は下を作れば、一枚は羽織と云った具合で春物と冬物を作った。長ジバンも作った。家に心配掛けないつもりで作ったのである。これで検査準備も出来る。当時の八木橋店をも思い出してみる事にする。現在の位置ほぼ同じ所で大きな呉服屋だった。その前に甘納豆を安く売る店もあって、あみだくじを引いて、買いにも行った(笑)。熊谷と云えば八木橋と云われたほどの店である。発展して、今も大きなビルになっているのが印象的だ。熊谷は思い出の地でもある。
 徴兵検査時の様子を思い出してみる事にする。お揃いで作った「セル」【セル地】の着物で先ず下検査に行くのである。彼、柿沼君とは別の日で、私達七郷村の者は小川小学校で検査を受けた。先ず驚いた点であるが、卒業時最も背の低い自分であったのに、此の頃の私は他の同級生より大きくなっていた。とにかく男子の本懐とする軍人になるのは五尺二寸五分以上(今の百六十センチ位かな)ないと甲種合格になれないのである。こうなると(軍国日本の時代)私は五尺二寸以上あり、先ず待望の甲種に希望を持つようになった。
 検査も無事終了。会社に戻ったが愈々気持ちにも変動感じるようになった。そこで軍隊に入るなら機械科部隊に入りたい。そう思ったので会社を止めて、同じ熊谷市内八百屋兼運送業店に就職した。トラック二台あり、後に一台は新型フォード車に入替えられる。当時の助手の給料は月七円。但し出かける時は毎日弁当代十五銭が貰えたと思う。牛丼が一パイ十銭位だったと記憶する。今の志村坂上に食堂があってよく立寄った。仲仙道のトラックの留り場のような所で交番もあった。最近の様子は余り知らない。此の店の運送業は主として深谷方面から、ねぎ、スイカ、瓦等東京に運んだ。当時の東京田園調布辺りも瓦を運んだが、ほとんど畑が多かった。帰りの荷は横浜まで行って鳥の餌を積んで帰る。こうした仕事のくり返しである。私が同乗した車の運転手は山梨の人だったが、奥さんは東京の蓮沼と云って今の高島平に実家があって、よく立寄ったのを覚えている。昼食を馳走になれば十五銭助かる(笑)。だが其の度、奥さんが運転台に入って、私達は後の荷台で荷物の上乗り。これが一番いやだった。気候の良い時は別だがさ。
 門前の小僧習わぬ経を読む。車も少しは動かせるようになる。しかし免許取得は決して楽でなかった。今のように○、×でなく、問題の解答は全文を文書で提出である。私の頭では入隊前、免許だけは間に合う努力は出来なかった。山田自動車講義録なるものを早くから取り寄せて居たが、実地運転は出来ても、学科が不合格だった。とにかく暗記して置かねばだめなんだから、法律、構造、今でも頭に浮ぶ所もあるね。
 免許の話が長くなったが、要は本検査時迄の職業を検査の時に知って貰い、甲種になったら希望の機械化部隊に入りたい。入れて貰いたい。勝手の思いかも解からんがそう思って、自分で下検査以来行動して来たのである。入隊出来たら運転も覚え、免許も欲しかったからである。此のようにして私自身の本検査に臨む準備は出来たのである。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 20頁〜22頁
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