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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし23 将軍沢

「正直に生きろ!人間真っ当であれば友達は増える」と剣道一筋70年、箔は要らぬと無段の指導者です。1975年(昭和50)嵐山町剣道会が発足、それ以来会長をしている忍田政治さん(大正13年生まれ)を訪ねました。

剣道へのきっかけ

 学校から帰ると、家の仕事が待っています。帰りを遅くしようと小学校の敷地内にあった道場でおじさんたちがやっとうをやっているのを眺めていました。小学三年生の時です。柔道・剣道を小学生に教えるために、島風「次郎、関根茂良さんが東奔西走して作った三間×五間の建物で、柔道は中島勝哉さんが教えていました。ある日、茂良さんにやるかと聞かれて、軽い気持ちで返事をします。入会金を半額にまけてもらい、十五銭払って入門しました。この道場は翌1935年(昭和10)12月、菅谷の大火で焼失しました。

大人の付き合い

 高等小学校卒業後、体が小さいのは家系で、年齢は十八歳だと偽って、国鉄八高線の日雇い人夫になりました。四年生の時から60kgの米俵を担ぎ、力仕事では大人達に負けません。保線工夫の手伝、大レ線(川越線)の突貫工事では、二人組で貨車一両にシャベルで砂利を積み込み、レール800kgを八人で担ぎました。仕事と一緒に人間が生きてゆくための、いろんな事をいろんな人に教わります。子供でも力と人との付き合いは大人並になっていきました。

凝縮された年月

 東京電力の鉄塔工事中、日雇い仕事は一生続けられるものではないと仲間に言われ、栃木県間々田村役場に出向き軍隊入隊を志願しました。1942年(昭和17)12月習志野の東部片岡部隊に入隊します。入隊三日目、教育係のビンタが炸裂しました。理由はわかりません。我慢できずに口の中のものを吐き出すと、血と一緒に奥歯が五本交じっています。相手を本当に憎らしく思いました。絶対服従を叩き込まれ、これが軍隊だと実感しました。
 一週間で「満洲」に渡り、殴られけ飛ばされて初年兵の教育を終え、選ばれて関東軍の下士官養成所に入所、卒業します。1944年(昭和19)、原隊に戻り、内務班長・初年兵教育係となり65名の部下の教育にあたりました。なめられぬよう髭は剃るなと教えられ、相手との信頼度を考えます。十九歳の忍田さんには全員年長者で、四十代半ばの人もいました。弱い者いじめを許さず、体力の劣る高齢者をかばいます。後の戦友会に出席したとき、抱きついてきて男泣きした人がいました。
 正直で利口で誤魔化しの利かない馬には一番勉強させてもらったといいます。手の付けられない暴れ馬も褒美に飴玉を与えるとコリコリ食べ、味を覚えると欲しがりました。政治さんには素直なのです。タツムラ、リキジ、サワシンなど今でも夢に出てきます。
 「戦争は地獄だ。二度とあってはならない」、十八歳から三年三ヶ月の軍隊生活を体験した忍田さんの言葉です。

嵐山初のシメジ栽培

 1948年(昭和23)スミさんと結婚しました。スミさんの父親は金鵄勲章をもらった日露戦争の勇士で、終世体内には機関銃の弾がありました。一人息子は日中戦争で子供四人を残し三十二歳で戦死しています。その父親に会って結婚を決めたそうです。スミさんは同じ歳の政治さんを見てずっと年上に感じました。
 農作業は二人です。養蚕や甘藷栽培はいつも高い収穫量でした。子供達の教育を考えます。回転早く収穫できるものにシメジ栽培がありました。二人で秩父の栽培農家を何軒も訪ねて勉強です。1970年頃でした。菌の植付から出荷まで冷暖房の温度調節して約一ヶ月かかります。一年中栽培できたのは、井戸があり水道代が節約できたからでした。政治さんが目方を計り、スミさんが包装、子供達がシール貼りの手伝です。毎日夜中まで出荷準備に追われて、東松山や坂戸の青果市場へ朝六時のセリの時間までに運び込みました。当時埼玉県のシメジ栽培農家は秩父中心の21戸位でした。ところが、国鉄改革で信越線の横川・軽井沢間が廃線となり、碓氷峠のトンネルを利用したシメジ栽培が始まりました。採算割れの市場価格となり業者は半減、子供達も巣立ち政治さんも廃業しました。
 縁側で、日向ぼっこしながら繕い物をしているスミさんの姿に、幼い頃の情景が重なりました。

『広報嵐山』191号「里やまのくらし」2007年(平成19)3月1日 より作成

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