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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし21 広野

屋根屋職人の仕事風景|写真1

屋根屋職人

 農家にとって冬場の農閑期は、出かせぎなど現金収入の稼ぎ時です。内田勝造さん(昭和3年生まれ)は小学校を終えると父親の房吉(ふさよし)さんの弟子になり、屋根屋職人になりました。仕事は親方に教わりながら覚えます。使う材料が少なく、見栄えよく仕上げ、手間賃が少なければ喜ばれますが、その屋根が雨漏りせずに長期間持つかどうかが勝負です。信用は金で買えぬと言いますが、家の人が見て、あの屋根屋さんが葺いた場所は幾年持ったから次も頼もうと信用を得るのです。
 屋根屋は仕事に使う自前の道具は少なく、カケヤ(ガンギ)・カマ・ハサミ・ハリなどです。カケヤは杉板から自分で作ります。カマの長い柄の先に鍛冶屋さんに金(かね)で穴の開いたものを付けて貰い、縄を通すハリと小刀(サスガ)の代わりにしました。材料は草屋根の屋根葺きを頼む家で、カヤ、麦わら、竹、縄、足場丸太などを揃えます。葺き替えは屋根の前や脇の半分とかで、全部を一度に変えることはほとんどありません。期間は普通一週間から十日間位で、2〜3人の職人が持ち場を決めて同時に始めます。手間賃は大工と同じ位でした。屋根屋は仕事先の家で朝食をご馳走になり、持参の作業着に着替えます。日暮れまで仕事をし、すすで汚れているので風呂をもらい、夕食を食べて帰りました。昔の農家は土間の向こうが風呂場で、きちんとした目隠しは無く、若いころの勝造さんは風呂にはいるのが恥ずかしかったそうです。

屋根屋職人の仕事風景|写真2

親子で

 ゑつさん(昭和2年生まれ)は1950年(昭和25)に嫁いできました。房吉夫婦と勝造夫婦はよその家の倍々働くことを心がけて、八年掛けて家の新築を準備しました。その頃、十万円あれば大工を頼めると言われていました。その甲斐あって1958年(昭和33)家の新築です。玉川村の元締めに頼んでおいた大黒柱用の欅(けやき)の木が見つかりました。紅赤(べにあか)と呼ばれている木肌がややくすんだ赤く固いものです。根元の所で六尺の臼を取り、大黒柱は長さ十八尺、幅一尺です。最上部は丁度凹みがあり、そこに食用油を一升入れて置きました。年月を経て油が少しずつ柱にしみ込み艶が出て、玄関を入ると直ぐ目に付きました。
 お風呂は五右衛門風呂にしました。火力があり早く沸くと勧められましたが、ゴミは燃せずに樫木(かたぎ)だけ、沸きも遅く、煙くて煙くて困りました。タイル張りの浴室は、しっかり作られており、直ぐに改造は出来ませんでした。
 ゑつさんは養蚕を一生懸命やりました。繭の出荷量は1969年(昭和44)に1129kg、1970年(昭和45)は1234kgにもなりました。1トン養蚕家です。家のどこに行っても蚕だらけで、母屋の庇(おろし)をずっと延ばして蚕室を作りました。長男夫婦は共稼ぎで、お嫁さんに「怪我したって、ころがしたって、気病まないで子守をしてほしい」と孫の世話を頼まれました。下の孫が小学校入学を機に養蚕をやめました。1990年(平成2)嵐山町の養蚕農家は全部で21軒に減っていました。

『広報嵐山』189号「里やまのくらし」2007年(平成19)1月1日 より作成

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