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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし20 杉山

小学校の思い出

 1940年(昭和15)、内田艶子さんは七郷尋常高等小学校に入学しました。一年東組の写真を見ると、おかっぱ頭、いがぐり頭、着物の子、洋服の子、ズックの子、下駄を履いた子、ランドセルの子、肩掛けかばんの子、そしておかけを掛けた子と様々です。三年生まで組替えはなく、四年生から男女別の組になりました。
 1941年(昭和16)、小学校は国民学校になり、太平洋戦争が始まりました。毎月一日・十五日は神社清掃です。登校前、杉山の八宮神社に集まり、石段の下から掃き始めます。神社は兵隊さんが出征時に参拝するので、何時もきれいになっていました。1944年(昭和19)秋、学校で兵隊さんのベッド用に使うためと、ススキの穂を集め、本庄の上武航空機材製作所に送りました。戦争末期には、空襲があったら直ぐに避難できるようにと、廊下や東と西の昇降口で勉強しました。サイレンが鳴ると学校の裏山へ避難しました。戦争が終わり、国民学校初等科から高等科に進みましたが、1947年(昭和22)3月、六・三制の新制中学が誕生し七郷中学校二年生になりました。
小学生児童|集合写真

おしどり夫婦の戦後

 中学二年を終えた時、十人兄弟の末っ子の弟が生まれ、子守や家事手伝いのため退学しました。「あかっこがいるから学校に行けない」と、悔しくてなりません。
 十七歳の時ミシンの仕事がしたくて姉の紹介で上京し、縫製店で働きました。東京はまだ焼け野原で驚きました。毎朝、二百円預かり、お米を一升買いにヤミ屋のオバサンの所へ行きます。給金は月千円で、半分は貯金に引かれました。家を継ぐはずだった姉が嫁ぎ、呼び戻されました。その時、二年分の積立金で買ったオーバーコートは、地元ではとても手に入らない程の品で、自分で働いて買ったと思うと誇りに思えました。
 ミシンは使えても洋裁の型紙は作れないので、嵐山駅前の水野今子洋裁学校に通い、近所の人の洋服を仕立てました。杉山の女子青年団に入り傘踊りも踊りました。8月父親が亡くなり、竹沢村(現小川町)の吉田實さん(昭和7年生まれ)と結納を交わすまでの間、働き手は女だけになりました。1956年(昭和31)結婚しました。
 實さんは朝5時起きして、高田馬場駅前のコンクリート会社に十年通いました。浅草寺の屋根のコンクリートの垂木(たるき)は全部取り付けたそうです。家で商売を始めようと、隣組の全員から保証人の判をもらい、農協から五十万円を借りて、1967年(昭和42)内田コンクリートを設立し、万年塀と呼ぶ一間長さの薄いコンクリートの板作りを始めました。1970年代には嵐山町の公共工事を請け負いながら、建築の基礎工事から土建業を段々に拡げ、重機も揃えました。實さんは、仕事の付き合いの酒で体をこわすこともありましが、「やってみて、やらせて、評価する」を若い衆を育てる三原則として先頭にたって働いています。仕事を継いだ長男は、毎日朝食前に、今請けている工事現場を見まわり、その日の仕事の段取りをつけるのを日課としています。
 農業と養蚕に専念し、商売には手を出さなかった艶子さんは、今があるのは實さんと息子のお陰だと感謝しています。人生の試煉は人それぞれで他人にはわからぬものですが、おしどり夫婦のパワーに圧倒されました。
艶子さんと實さん|写真

『広報嵐山』188号「里やまのくらし」2006年(平成18)12月1日 より作成

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