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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし19 越畑

 見合いの日、お茶を出してくれた娘さんとは言葉を交わすことなく、出されたうどんをうまいとたいらげて帰ってきた持田市三さん(大正12年生まれ)、嫁ぐ気が全くなく泣いていたトシ子さん(同15年生まれ)、二人は1949年(昭和24)3月、結婚式を挙げました。見合いの席でうどんを食べることは、娘さんを嫁にもらうという意思表示でした。

木挽き職人から材木屋へ

 市三さんの父伊作さんは木挽(こび)き職人でした。木挽きは山で樵(きこり)が根切りした原木の丸太を大きなノコギリで挽いて、板や角材をとる仕事です。一本一本の木を見て、どの部分を柱にするか、どの部分を梁(はり)や垂木(たるき)にするかなど木取り、墨付けし、一本の木を無駄なく使い切ります。工務店請負で住宅建設が行われるようになる1960年代以前には、間取りの設計・必要な材木の見積(みつもり)・建主の持山を下見してどの木を伐採するかの選定まで木挽きの仕事でした。
 父に木挽きとして仕込まれていた市三さんは結婚を機に、元締(もとじめ)として材木屋の商売を始めたいと思いました。元締は山の木を売買する仲買です。仕事一筋で根っからの職人の父親は、商売を始めることに初め反対でした。

持田市三さん|写真

 1952年(昭和27)の正月、二人は1500円の豚ッ子を小遣いのかわりに買って貰いました。「あんばいにして小遣いにしろ」と言われ、一生懸命世話して大きく育てて売りました。それを元手に父親に少し金を借り、金泉寺の杉の木を一本買いました。市三さんは普段の日は木挽きの仕事をして、年中行事のある物日(ものび)と雨の日に風呂釜の桶板(おけご)を挽いて、小川の桶屋に売りました。粘土質の土壌で風にもまれたこの地域の杉から作った風呂桶は、20年持つと言われていました。買える木も一本が二本にと増え、桶屋さんを呼んで風呂桶を作って納めるようになりました。

持田トシ子さん|写真

 やがて、ここからここまでと山の木が買えるようになり、杉だけでなく、赤松・樫(かし)・欅(けやき)・楢(なら)などの建材や薪炭材・椎茸のホダ木も扱うようになりました。持田材木店の始まりです。山には赤松が多く生えていました。松はよいところを建築材にとり、残は経木(きょうぎ)・木毛(もくもう)・チップ工場に、枝は瓦屋へ、葉は焚きつけにと残さず使います。1960年(昭和35)頃には武蔵木毛に出荷しました。木毛は、果物や割れ物を箱詰めにする時、品物を動かないように間に詰める巾2mm位のかんな屑状のものです。長谷川経木店にはお店が終わるまで節のない材を納めました。経木は松材を紙のように薄く削って菓子や魚・肉を包むのに使われ、枇木(ヒゲッカァ)とも呼ばれていました。

忙しい毎日

 えり好みをせず、何でも引き受けて着実に仕事を拡げていきました。トシ子さんは材木屋と百姓とお蚕と忙しい毎日です。学校の授業参観ではよく居眠りがでました。五人の子どもたちには何もしてやれなかったし、またよく使ったと言います。女の子は中学生位になると、弁当作りや洗濯は自分でするようになりました。男の子は小学4年生で「早寝早起きは長者の習慣(ならい)」と新聞配達をし、中学生になるとアルバイトをしたお金で仕事の道具を買いました。現在、兄弟二人が市三さんを助けて、製材・伐採の仕事をしています。

木挽鋸|写真
市三さんの木挽鋸(こびきのこ)。刃渡り53cm。使い込んで幅は10cm位減り細くなりました。

『広報嵐山』187号「里やまのくらし」2006年(平成18)11月1日 より作成

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