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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし18 菅谷

 7月菅谷神社のお祭りです。参道の両側には露店が並び、子供達が真剣に何かをのぞいています。神社の神楽殿では巫女さんが舞を舞っています。夕方6時、演芸大会が始まりました。この10年島岡剣劇舞踊団が興行しています。座長は岡菊夫・本名岡島里次郎さん(昭和8年生まれ)です。

岡菊夫(岡島里次郎)さん|写真1

踊りへのきっかけ

 終戦後、姉が毎夜、大河の青年団へ踊りを教えに出かけます。母に言われて14歳の弟が、護衛としてついて行きます。稽古を見ているだけでも面白く、踊りの振りが自然に頭に入っていきます。習っている人達の覚えが悪いのが不思議でした。15歳の夏、紙漉(かみすき)の研修に参加した時、話をしたのがきっかけで竹沢村3か所の女子青年団の所へ、踊りの師匠として出向くことになりました。年上のお弟子さんにお願いしますと挨拶されると、坊主頭の少年は恥ずかしさで顔が真っ赤になっていました。
 姉の家に同居をして17歳から、朝7時から始まる神田の青果市場仲買(なかがい)店へ、13年間電車で通いました。その時から、踊りと仕事とをきっちり両立させていました。姉に言われた言葉がそうさせたと言います。

岡菊夫(岡島里次郎)さん|写真2

 二十歳の時、玉川千鳥一座に請われて、滑川の諏訪神社祭で踊ったときでした。自分で化粧が出来ず、座員のしてくれた顔も男前にはほど遠い物でした。すでに百人位の人に教えていたので自信はありました。「赤城しぐれ」を踊ったのですが、拍手してくれたのは五人位でした。ただ踊るだけでは、自分は好くてもお客が手を叩きません。舞台に立つことで素人と玄人芸の違いをみせられました。芸の勉強は、先輩のしぐさを見て盗むこと、歌の詩の心を読み取ることでした。8年後には、どこへ行っても拍手がなりました。芸名は玉川菊夫、立花菊之助、岡菊夫と変わっていきました。
 三十歳、多眞江さん(昭和11年生まれ)と見合い結婚です。何故か二人とも迷わず即決めたと言います。多眞江さんは楽屋での手伝い専門でした。

岡菊夫(岡島里次郎)さん|写真3

お祭り

 菅谷の天神さまのお祭りです。七月に入ると太鼓の音が聞こえます。何も無いときで楽しみでした。紺屋の庭さきに神輿がかざられ、舞台が作られ踊りました。道路も見物人であふれていました。
 夏から12月までお祭興業です。越生、松山、小川、越畑の薬師様、鬼鎮様とありとあらゆる所で踊りました。黒山三滝からは迎えに来たオート三輪の荷台に荷物と七、八人が乗り、ほこりまみれになって行きました。電車を利用すると、大荷物の一団に同情の目が向けられました。踊りが嫌になることは一度もありませんでした。
 カラオケが流行ると、費用のかさむ興業は減っていきました。
 嵐山夏祭りの時は、旭運輸のトラックを三台提供して貰い、そこを舞台に踊りました。

岡菊夫(岡島里次郎)さん|写真4

『広報嵐山』186号「里やまのくらし」2006年(平成18)10月1日 より作成

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