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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし16 越畑

 1956年(昭和31)、将軍沢から越畑に嫁いできた市川文子さんの回想です。夫の之男(ゆきお)さん(故人)は、越畑八宮神社の獅子舞の笛の楽譜を、福島和さん、小澤禄嘯ウんと協力して、わかりやすい指音符(ゆびおんぷ)本に作りました

忘れ物

 小学校が国民学校になった1941年(昭和16)、文子さんは菅谷国民学校初等科の2年生です。教科書も新しくなり、例年のように上級生から借りることができず揃えられません。隣の席の子に見せてもらいました。昔の学校では忘れ物をすると家に取りに返されました。原稿用紙を持たずに登校した作文の時間を今でもはっきりと覚えています。戻っても無駄だとわかっているので、遠回りをして将軍沢に向かいます。途中に墓地がありました。「これから悪いことは決してしません。先生には忘れたと言いましたが、家には買い置きもないのです。どうぞ助けてください」と手を合わせました。菅谷の東原団地あたりはヤマで大杉があり、その根元にうずくまり、姿が見えないようにして泣きました。切ない何もない子供時代のことでした。

菅谷国民学校4年竹組|集合写真
菅谷国民学校4年竹組(山下マサさん提供)

一途さが好きに

 之男さんは自転車で将軍沢に通って来ました。「週に一度必ず来るから」という約束で、一日の仕事を終えていつも8時頃でした。ある晩、こんなに良い月夜だから、きっと来ると待ちますが時間が過ぎても来ません。諦めて寝ようとしたら「今晩は」と声がします。夕食後、妹と田んぼ7畝の稲刈りをしてきたと言うのです。嵐になりそうだから今日は来ないだろうと思っている晩にもやって来ました。当時都幾川の学校橋はまだ木橋で、増水時に橋が流されないように取り外します。風雨が強くなって橋はないからと引き留めてもその晩、越畑へ帰って行きました。自転車を水につけないように担いで川を渡り帰ったそうです。嵐の晩から文子さんはこの人と結婚しようと決めました。

何本もある井戸

 之男さんは、家には井戸が幾つもあると言っていましたが、結婚してそれが水に苦労するということだと分かりました。野良から帰ると、家の後の池で手足の汚れや野菜の泥を落とします。実家の母に小さい頃から、生ものはよく洗ってかけ水をしろと教えられてきたのに充分にはできません。水が足りない時は、田んぼの向こうの幡後谷(はたごやつ)の清水(かれずの泉)から運びました。身重になって汲んできてもらうようになると、無駄にしないようさらに気をつかいました。おしめも真っ黒になった風呂の残り湯ですすぎます。子供が増え、之男さんが家の前に井戸を掘ってくれて、水の不自由さからひとまず解放されました。之男さんは近所にも頼まれ、何本も井戸を掘りました。北部地区上水道施設開設の陳情が1965年(昭和40)に出され、1971年(昭和46)全町給水が決定されました。水道が引かれると洗濯物の黄ばみが無くなりました。その時から人も洗濯物もあか抜けしてきたのだとお嫁さんと笑いながら話してくれました。

1950年3月七中|卒業写真
1950年(昭和25)3月 七郷中学校卒業写真(大塚元一さん提供)

『広報嵐山』184号「里やまのくらし」2006年(平成18)8月1日 より作成

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