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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし14 鎌形

鎌形八幡神社の手水石

 嵐山町鎌形の八幡神社には木曽義仲の産湯につかわれたといわれている清水があり、嵐山音頭に、「ハアー 八幡の/森にだかれて義仲どのが/産湯つかいし清水は今も/ホイサ 昔のおもかげ残す/残す情の七清水/ランラン嵐山 愛の町」と歌われています。
 こんこんとわきでる清らかな水をたたえる手水石(ちょうずいし)にまつわる話を長島正一郎さん(大正9年生まれ)からうかがいました。昔、田黒(たぐろ)の山から切り出した大石を川越に運ぶ荷車が八幡様の南側の道を通りかかると不思議なことがおこりました。下り坂なのに車がピタリと止まって動きません。「八幡様がこの石を欲しいということなのだろうか。それなら八幡様にさしあげよう」ということになり、代官をしていた長島家の先祖が五両で買い取って、八幡様に奉納したという伝承です。
 手水石には「享保一五歳(1730年)/庚戌(かのえいぬ)正月吉日/川越南町西村多右門」の文字があるだけで、ほかには何も刻まれていません。長島家では、子供三人が兵隊に取られた1941年(昭和16)まで、年末になると必ず手水石を掃除し、竹を切って清水の樋(ひ)を取り替え、手を洗い口をすすぐ柄杓(ひしゃく)を新調していました。

鎌形八幡神社の手洗石|写真

 上に掲載した戦前の写真から、当時は手水舎はなく雨に打たれていたこと、手洗石は現在の場所よりも本殿へ上がる石段よりに据えられていたことなどがわかります。段上にある「木曽義仲産湯清水」の石碑は、いつ、だれが建てたのか記されていませんが、江戸末期から明治初めの頃、修験(しゅげん)桜井坊の簾藤盈恭(えいきょう)が建立したと伝えられています。

買い納めの木

 天保年間(1830-1844)八幡宮社殿の改築が行われることになりました。境内にある大木を用材として売ったのでは伐採されてしまいます。別当斉藤周庭(しゅうてい)は百五十両の資金調達のために、氏子有志に「買い納め」を提案しました。境内の立木を買い代金を納める時に、「家内安全子孫長久」の永代祈祷と切ることは決してしないという約束で、その木を神社に奉納するという方法です。境内の数十本の巨木が買い納められ、神社の森は保全されました。
 その後も祈願記念の買い納めや苗木の奉納などが続き、昼なお暗く鬱蒼(うっそう)とした社叢林(しゃそうりん)が作られていきました。大正初期まで、祭礼の時には境内の買い納めの木一本一本に奉納者の名札がつけられ、お代官杉、惣左衛門欅(けやき)、万右衛門杉などの名前が氏子や参拝の人々に語り伝えられました。
 下の写真は1953年(昭和28)頃の八幡橋で、鎌形小学校の児童が映っています。1959年(昭和34)の伊勢湾台風、1966年(昭和41)の台風26号の猛威により、巨木のほとんどが倒され、荘厳といわれた境内林は失われました。現在、大木は本殿周辺にわずかに残っているだけです。

八幡橋と鎌形小学校児童|写真

『広報嵐山』182号「里やまのくらし」2006年(平成18)6月1日 より作成

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