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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし13 川島

 沼の中の川嶌上下講中の弁財天を見ながら、天沼(あまぬま)のほとりを奥(おくり)まで入って行くと、安政二卯年九月吉日/願主権田喜藤次と刻まれた弁財天の石碑がたっています。そのいわれを権田本之(もとゆき)さん(大正12年生まれ)とケイさん(大正14年生まれ)が話してくれました。

弁財天の石碑|写真権田本之さんとケイさん|写真

天沼の悲恋

 鬼鎮神社が参詣人でにぎわっていたころのことです。お参りに来る人たちが泊まる旅籠(はたご)に、東北の方から奉公に出されて来た娘が働いておりました。この娘を見初めた若者がいて、二人は互いに好意を持つようになりましたが、結婚することはかないません。親が許さないのです。思い余った二人はとうとう天沼で心中してしまいました。若者は18才でした。死を選んだ二人をふびんに思い、若者の父親は供養のために沼のほとりに弁財天を建てたのでした。
 先年、沼堤の道路舗装の際、過去帳の名前から、篠藪(しのやぶ)の中に埋もれていた弁財天が権田さんの家に言い伝えられてきたものであることがわかりました。その後、沼へ通ずる排水溝が整備された時、石碑に台座が作られ、現在は四季の花に囲まれて祀られています。

昭和20年代の川島

 川島の全戸数は約40戸でしたが、現在は800戸を超えています。権田さんの家のある字(あざ)花見堂にはきかず薬師があり、少し離れた字天沼に鬼鎮神社があります。隣組は絵馬屋(いまやんち)、脇家(わきんち)、小間物屋(こまもんち)、新聞屋(しんぶんやんち)、新井屋(あらいや)の屋号で呼ばれる6軒で、周りは畑と松ヤマと雑木林でした。住宅が増えた今でも、昔からの仲間で川島2区12班として隣組を続けています。
 秋の薬師様の縁日は大層な人出でした。芝居小屋がかかり、演芸があり、露店が並びにぎやかでした。ほっかぶりして、はんてんを着て、ふろしき包みを背負(しょ)った人たちが大勢来て、薬師様に泊まり、おこもりをしました。
 5月8日のお釈迦様もにぎわいました。おじいさんが山から取ってきたヤマツツジの花を花御堂(はなみどう)に飾り、松山で買ってきた甘茶を作ってだしました。昭和50年代に薬師様とお釈迦様の誕生仏が一緒に盗まれ、祭りは絶えました。

働いて働いて

 働き者の娘だからと請(こ)われてケイさんは1945年(昭和20)12月に嫁いで来ました。実家もよく働く人達でしたが、川島の人たちはそれ以上でした。姑について朝から晩まで働きました。麦まきの頃には朝4時ごろから、カッチン、カッチンと畑を耕す音が聞こえてきます。人の姿は分からず、星が見えるだけでした。獣医さんの世話で志賀の農家から乳牛を買い、家の廻りを牧草地としました。一番多いときは12頭にもなり、搾った乳は耕運機で駅前の全比酪農組合へ運びました。養蚕は、春蚕、夏蚕、初秋蚕、晩秋蚕、晩々秋蚕、初冬蚕と年六回出した時もあり、休む暇はありませんでした。

養蚕の回転蔟|写真

年老いて来た道ふりむく飛行雲

 自分のこれまでの人生を振り返ってみると一生懸命してきた事でも、記憶は飛行雲のように遠くの方から消えていってしまっている。それなら忘れないうちに文章にしておこうと、本之さんは自分史を書き始めました。体をこわして何回か中断しましたが、最近、どうしても続きを書かなければと思うようになったと、力強く語っています。

『広報嵐山』181号「里やまのくらし」2006年(平成18)5月1日 より作成

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