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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし12 志賀

 庭先でのこぎりの目立てをしている人に、「彦三さんはいらっしゃいますか」と声をかけたら、「おれだよ」と返事がありました。おもわず「若い」と声が出た90歳の根岸彦三さん(大正4年生まれ)と、85歳のときさんに2006年春、取材した話です。

根岸彦三さんと、ときさん|写真

ちっとんべいの百姓

 「ちっとんべいの百姓だったから、おやじもおれもいろいろなことをやったんだよ」、彦三さんの言葉です。宅地以外は田んぼも畑も全部借りて耕作している小作農でした。学校をさがる(卒業する)と、よその農家の仕事も手伝いながら一生懸命農業をしました。冬場の農閑期には近くの材木屋さんで働きました。山からまきを背負(しょ)い出すことからはじめ、枝まるき、材木の伐採までできるようになりました。高橋材木店には戦後も長く勤め、フォークリフトの免許もとりました。1935年(昭和10)頃には牛を買い、父親の福平さんが東上線の線路工夫を辞めた時に牛車(うしぐるま)を作りました。馬力(ばりき)にまじって日傭取(ひようとり)に運送の仕事にもでました。都幾川で採取した砂利を駅まで運び貨車に積み込む仕事です。力のある雌(めす)牛で、川原から武蔵嵐山駅まで一回におよそ1トンの砂利を運びました。
 戦争が長期化すると徴兵や徴用で離村者が増えました。農家は手間不足になり、それまでは頼んで小作させてもらっていたのが今度は逆に頼まれるようになり、耕作面積が増えました。背が小さい彦三さんは徴兵検査で丙種合格となり第二国民兵役に編入されていましたが、戦争が激化した1945年(昭和20)5月、横須賀海兵団に召集されました。その頃、田んぼだけでもやたら増えて6反以上作くるようになってたそうです。戦後の農地改革で彦三さんは自作農になりました。戦時中の小作地拡大を反映して、解放された農地も増えていました。
 彦三さんはこれまで約4反の田んぼを作ってきました。でも、「今年は米作りをほとんどやめようと思っている。去年までの十分の一位かな。辻(つじ)の区画整理した田んぼは営農集団に委託したんだけれども、津金澤(つがんざわ)の谷津(やつ)の奥にある棚田には大型の50馬力のトラクターでは入れないんで頼めないんだ。機械も年をとってしまった。人間も年をとってしまった。何もかも年をとってしまって疲れて動けなくなりそうだから」と語る彦三さんは少し寂しそうでした。

津金澤の棚田|写真
津金澤の棚田(志賀)

スマシ

 農家の夕食といえばうどんです。煮込んで食べたり、ゆでて水にさらしシタジにつけて食べます。みそは買わずに作っていました。みそをなべで煮ほぐして液状にして木綿の袋に入れ、流しのわきに掛けてポタポタと垂れ落ちる汁を貯めて使いました。このみそをこした汁をスマシといい、うどんのシタジに使いました。醤油も自宅で作っていましたが、麹(こうじ)作りから仕込み、搾(しぼ)り、仕上げの火入れまで醤油屋さんを頼まなければならないので経費がかかります。スマシは醤油の節約にもなったのです。シタジにはカテと薬味を添えます。カテにはホウレンソウ、ナス、インゲンなど季節の野菜をゆでました。薬味はすりゴマ、刻みネギ、ミョウガ、ユズの皮をおろしたものでした。
「手間ひまをかけることは何でもなく、あるものを無駄なく工夫して使い切るのが当たり前だったんだよ。買うものは少なかったよ」と、ときさんは言います。よく耳にする言葉です。手間(労力)とひま(時間)をおしんで、商品やサービスを買ってすますことができる時代ではありませんでした。

『広報嵐山』180号「里やまのくらし」2006年(平成18)4月1日 より作成

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