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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし10 根岸

大火の歴史

 明治の頃、嵐山では数十戸が全焼する大火が幾度もありました。1868年(明治元)10月・全焼30戸、1870年(明治3)1月・全焼25戸、1881年(明治14)5月全焼50戸、同年11月・大蔵全焼13戸、1890年(明治23)2月・菅谷全焼47戸という記録が残っています。明治後半以降、1910年(明治43)4月・菅谷村役場、1917年(大正6)9月・鎌形小学校、1939年(昭和14)5月・七郷産業組合が焼けています。
 1935年(昭和10)12月3日の菅谷の大火では、米山材木店の東側にあった菅谷小学校も類焼しました。火元より延焼して21戸52棟が焼けた原因は、前日からの北西の烈風と消火のための水の便の悪さからと言われています。

大蔵・根岸の大火

 1946年(昭和21)3月8日午後1時頃に出火した大蔵の火事は南東の方角にある大字根岸に飛び火し、10軒が焼け出される大火となりました。
根岸福平さん(写真右)の話:横なぐりの強風で焦げた麦ワラが空が見えないほど飛んで来ました。母屋のワラ屋根に飛んでくる火の粉を払うため、濡らしたムシロを持って屋根に上がりました。北側の家二軒が燃え上がるのが見えても、わが家を守るのに手一杯で助けには行けません。煙が立ち上らず地面をはうように流れたので、大蔵・根岸方面が火事だと気づかれるのは遅れました。応援に親戚が来てくれた時は助かりました。
根岸茂夫さん(写真中)の話:大きな黒い固まりのワラがボタッと落ちるとパッと赤くなって火の粉となり飛び散ります。はしごで屋根に上がりホウキで火の粉を下へ払い落としました。新しいワラ屋根は堅くて滑りやすいので自分も下へ落っこちそうで怖いものでした。都幾川対岸の唐子村の青年団の人たち多数、消火の応援に来てくれました。演習の時にはかかった消防ポンプもこの時は動かず、手押しポンプを使いました。
対岸からの目撃者の話:盲腸で岩田病院に入院していました。家財道具を運び出すことにみな夢中になっているようでした。屋根の火の粉を払えば間に合うのにとやきもきしながら見ていると、屋根が赤くなり一気に燃え広がっていきます。吾妻(あづま)神社【権現様(ごんげんさま)】のある前山(まえやま)の山林にも火がつきました。

灰小屋と根岸さん等|写真

 大字根岸では1923年(大正12)、各家の目につきやすい場所にコンクリートの灰小屋を設置しました。カマドやイロリから出た灰を貯蔵し、カリ肥料として使いました。上の写真の灰小屋は根岸隆男さん宅の庭先にあります。

 根岸観音の火災

 安産と子育ての御利益(ごりやく)があるとして近郷の信仰を集める根岸観音の祭りは毎年2月20日と10月20日におこなわれています。下の写真は1953年(昭和28)10月20日に撮影されたものです。境内につくられた舞台には、昭和の初めに大蔵の若者たちが組織した「大若連」の引き幕があり、警備の消防団員が写っています。観音様のお堂は、1948年(昭和23)4月14日の火災(全焼2戸3棟・公会堂)で類焼しました。

警備の消防団員|集合写真

根岸直次さん(写真左)の話:当時は観音様のとなりに住んでいました。前年9月15日の大水で流された月田橋の掛け替え工事のため家の側の旧道を代燃車(木炭自動車)のトラックが走っていました。その火の粉が、積んであった麦わらに燃え移り、そこから発火したのです。現在の観音堂は1997年(平成9)に新築したものです。

『広報嵐山』178号「里やまのくらし」2006年(平成18)2月1日 より作成

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