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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし9 町内

夜番

 2005年11月8日、不審火による住宅火災が発生し、志賀2区では住民による防犯パトロールが毎晩行われるようになりました。今回は1950年代後半(昭和30年代前半)の火の用心の話です。

 師走になると21支部(杉山の猿ヶ谷戸・川袋)では、全戸が順番に毎晩二軒一組で夜番(よばん)をしました。あかりは持たず、寒いのでどてらに襟巻、頭巾やほおかぶりをして歩きます。雨の日は休みです。不審な明かりやたき火の始末を確かめながら家ごとに庭まで入り、拍子木をカチカチとならし、「ごようじんない」(ご用心なさい)と声をかけ、「ご苦労さん」と返事が返ってくるのを待ちました。夜半に二度回るので、どちらか一人の家が宿(やど)になって次の巡回まで暖を取ります。冷え込みの厳しいときは、甘酒、おっきりっこみ(煮込みうどん)、小豆がゆなど夜食をとりました。当番の家の都合で女性や子どもがでることもありました。

 杉山・猿ヶ谷戸の夜番は薬研堀の細い山道を通ります。二人並んでは歩けません。前になっても真っ暗、後になっても真っ暗で、ガサガサと音がしてこわくてイヤだったそうです。川袋の夜番は、山道ではなく、耕地の側の道を通りました。

1971年夜警交番表|写真1

1971年夜警交番表|写真2

 大蔵の消防小屋に夜警交番表がありました。1971年(昭和46)のもので、21組までの当番と巡視路略図が書かれています。大蔵では四軒一組で12月〜3月にかけて毎晩、夜警をしています。当番の四人が二人ずつ組み、宿に当たった人の組から先に、頭に鉄の輪のついたかなんぼう(鉄棒)をジャランジャランとならして通りを回りました。杉山のような庭先での声かけはしません。後の組は帰りがけに翌日の当番の家にかなんぼうを置いて帰りました。

 現在、大蔵にはボランティアの大蔵自治消防団(2005年度の団員は男子15名、女子6名、計21名で3班編成)があり、2005年度(2004年11月1日〜2005年10月31日)は歳末の28日〜30日に夜警巡回を実施しています。

2005年度夜景順路|写真2005年度年間予定表|写真1

火防巡視

大蔵の冨岡寅吉さん|写真  消防団の役員が昼間各家庭を訪問し、家屋内の火の元点検をするのが火防巡視です。かまどやいろりの廻りがきれいに掃除されているか、風呂場の火口のまわりはどうか、周囲に可燃物が置かれていないか、煙突にすすはたまってないか、取り灰はきちっと処理されているかなどチェックします。点検が終ると火災予防の標語の印刷されたステッカーに優・良・可のランクを書いて手渡しました。
 1955年(昭和30)、大蔵の冨岡寅吉さんは菅谷村消防団第8分団(大蔵・根岸・将軍沢)の役員でした。「火の用心は誰のため」が当時の日記に書かれていました。2月22日に菅谷で実施した合同火防巡視の感想です。この日は役員三名で、翌年は婦人会役員と回っています。

 火防巡視を実施して気の付いた点を上げて見ます。未だ掃除していない家ではたいてい言い訳をします。「未だご飯をすませたばかりで片づかない」とか「子供がうるさくて」等々。いつもの火防巡視でも言訳は付きものですが、自分の為の火の用心ですから他人に言訳することはないと思います。台所でたき火をして小さい子供さんと暖まって居ましたが、子供が一人の時まねしますと間違いの原因となりがちです。消火弾*1の設備のある家で小母さんに使用方法を問うたら主人が知っていますと答えたが、誰にも使用できる様にお願いしたい。設備を良くするには金をかければ出来ますがたとへ簡単なかまどでも注意を怠らなければ、立派な火の用心が出来ます。設備に頼るより自分を信頼してお互いに気をつけませう。

*1:消火弾…ガラスの球に消火液の入った手なげ弾

 1950年代の農家はまだわらぶき屋根も多く、土間にはへっつい(かまど)やいろりがあり、そこから火の粉が飛ぶこともありました。消したはずのたき火や風呂の残り火、取り灰が風にあおられて燃えだしたり、養蚕の暖房の不始末、子どもの火遊びから火事になることも多かったのです。

 農家の土間の様子は、『埼玉の民俗写真集』(埼玉県, 1991年)で見ることができます。

『広報嵐山』177号「里やまのくらし」2006年(平成18)1月1日 より作成

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