第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
里山のくらし
「昔の人の言っていることに、うそはない。人生経験から言葉は生まれてきている。」と語る将軍沢の鯨井正作さん(大正15年生まれ)と上唐子(かみからこ)から嫁いできた妻ヨシ子さん(昭和3年生まれ)のお話しです。
恋愛結婚
年ごろの男女が知り合うきっかけの一つに夜遊びがありました。一日の仕事を終え、夕食後に自転車や歩きで、気のあった仲間と青年団の素人演芸会や映画会、若い娘のいる家に出かけました。正作さんも新井ヨシ子さんを夜遊びで見初め、四年後、正式に仲人を立て結婚を申し込みましたが、小姑が多く、職人の家では苦労すると母親が大反対。嫁方、婿方双方から仲人を立てることで母親も折れ、1949年(昭和24)1月結婚しました。恋愛から結婚に至るには、親の承諾が不可欠な時代でした。
当時、将軍沢には役牛(えきぎゅう)はいましたが乳牛は飼われていませんでした。血統書付きのホルスタイン種の乳牛を結婚を機会に購入しました。値段は5万円。結納金と同額のため、今でも角のない牛(農家の嫁)と同じだったんだよねとヨシ子さんに言われています。この牛は一日二斗も乳が出ました。
大蔵の南、将軍沢に接するあたりの不逢ガ原(あわずがはら)に発する流れを入加(にゅうか)堀といいます。その流れにかけられた橋は坂上田村麻呂将軍の伝説から「縁切り橋」と呼ばれ、結婚式のご祝儀の時にはそこを通らぬようにしてきました。
鯨井さんは御祝儀の当日、婿方一行と花嫁を迎えに唐子に出かけ、花嫁宅で祝言を挙げます。その後、花嫁一行と迎えの人たちは花嫁行列で歩いて将軍沢に向かいます。月田橋を渡って大蔵に入り縁切り橋に近づくと、橋を避けて手前のみたらしから西に回って原(はら)(現・嵐山カントリーゴルフ場6番ホールのそば)を通り、将軍沢に出て花婿宅に到着、そこでも祝言を挙げました。嫁方・婿方の双方で祝言をあげる御祝儀の形は、将軍沢では1965年(昭和40)3月の秋山勝・行枝さんの御祝儀が最後でした。昭和30年代からは、嫁方と婿方が一か所に集まり式場などで挙式するように様変わりしたのです。
縁切り橋には縁切りしたい女性の櫛が捨てられており、子供のころ拾ってくると「櫛は縁を切ると言って駄目だ」と、おばあさんに注意されたと富岡ツネさん(大正12年生まれ)が話してくれました。
将軍沢は「ポーポー谷(やつ)」と呼ばれた寂しい場所でした。「昔のくらしは今じゃできないなぁー」とヨシ子さんは言います。唐子の実家には自家水道があり、米搗(つ)きは発動機のある精米所でしましたが、将軍沢では足踏みの地唐臼(じがら)でするのでたまげました。竈(かまど)の仕事は嫁の仕事と言われ、ご飯は朝・昼の分を一度に3升も炊きました。麦の多く入ったものでした。
足半(あしなか)草履は草刈りに初めて履きました。見たことがなかったのです。乳搾(ちちしぼ)りは一日4回するので遠くの畑に仕事に行っても、昼には家に戻ります。落ち葉の季節には道脇にたまった落ち葉をぎっしり詰めた印篭籠(えんりょかご)を背負って、40分位かかりました。嫁は働くだけで直接お金を手にすることができなかったため、実家にお客に行った時にもらったものを「チクチク」貯めました。月々の積み立てができ、旅行に出かけられるようになったのは後々のことでした。
『広報嵐山』175号「里やまのくらし」2005年(平成17)11月1日 より作成