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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし6 小倉

 小学校の同窓会で、一年生の担任だった先生から「あなたはおしゃまだったから忘れないよと言われたの」と、夫の知助(ともすけ)さんに昔を懐かしく語る玉川村小倉(おぐら)で昭和4年に生まれた大蔵の大沢こう(旧姓杉田)さんのお話しです。

子供のころの嵐山

 子供のころ、嵐山(あらしやま)には水車の堰(せき)があってボートが浮かべられ、船遊びもできました。観光客が小学生の遠足のようにぞろぞろと行列して来ていました。地元で東京もんと呼んでいた人たちが細原の原っぱで、キャンプファイヤーをしているのを川を渡って見に行きました。男の人や女の人がキラキラしたレイを首にかけて、踊ったり歌ったりしています。それを家や学校で真似て遊びました。観光客の帰った後にはきれいな包みが捨てられていて、何だろうと開いてみると、箱詰めののり巻きやおいなりさんでした。食べきれずに捨てていったのでしょう。男の子は森永や明治のミルクキャラメルの箱を足で踏んで中身を確かめていました。大平山の麓にあった松月楼のバンガローには、蚊取り線香の燃えさしがあり、珍しくてそぉーと、匂いをかいだりしたこともありました。初めて撮ってもらった写真は、右端で足のすねがでている着物丈のおかっぱ姿です。

娘時代

 家族の着物を縫い、洗い張りをして縫い直し、繕(つくろ)って使い回しをするのは当たり前でした。娘たちは嫁入り修業に裁縫を習いました。和裁は、冬の間幾年か下里の島田ケイ子さん宅に歩いて通いました。月謝は気持ちだけでした。洋裁は自転車で、小川町の写真屋秩父堂へ二年間通いました。島崎愛先生はクリスチャンで、賛美歌を皆で歌って授業を始めました。
 松月楼のまわりには畑がありました。槻川の傍なので、細かい砂と土の混じった砂味(すなみ)の畑です。丁寧に鍬(くわ)でうなう父に負けまいと一生懸命に土を起こしていると、「おこうがやると仕事が速い」と母は褒めてくれました。でも、その頃は土を細かくすることまで気が回りませんでした。
 戦争が長期化し、男の人たちは兵隊にとられ、軍需工場にいきました。男手が足りないのだから女も馬や牛を使えなくてはと馬耕講習会が始まりました。出征前の兄が馬の口を取り、鋤(すき)を使って畑を耕す練習を家でもさせられました。

婚礼・里帰り

 1950年(昭和25)に見合いをし、翌年結婚しました。結納金は二万円で足踏みミシンを買ったら残りはありません。小倉から大蔵まで花嫁行列で歩いてきました。トボーグチ(玄関)を入るとき、「上を見ないで下を見て暮らせ」と農作業にかぶる菅笠(すげがさ)をさしかけられ、「子供ができるように」と杵(きね)をまたがせられました。
 実家に帰れるのは1月15日の小正月、節句、9月1日生姜(しょうが)節句、オクンチ秋祭り、農休みくらいでした。自分から「行ってもいいですか」などと言い出せません。「お客に行く」と言って着物・羽織姿の盛装で出かけました。親は「早く寝かせてやろう、沢山食べさせてやろう」と気づかってくれましたが、一晩か二晩泊まれるだけでした。戻る日に帰りが遅くなると、それだけで親たちに気を遣いました。自由によそに出かけることなど出来ない時代でした。

武蔵嵐山(嵐山渓谷)|写真
崖上は1931年(昭和6)、庄田友彦氏が開いた料亭松月楼。
与謝野晶子は、1939年(昭和14)6月この地を訪れて二十九首を詠む。

    おぼつかな二つの岩を繋ぎたる
               湯桁の幅の夏山の橋

『広報嵐山』174号「里やまのくらし」2005年(平成17)10月1日 より作成

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