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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし5 越畑

狭い道路

 越畑の西部、小川町と嵐山町との町境に市野川が流れる地域を串引(くしひき)といいます。1965年(昭和40)、近所に婚礼があり、花嫁の送り届け役を仰せつかった須永功(いさお)さんは、金襴緞子(きんらんどんす)の花嫁御寮(ごりょう)を小川熊谷県道まで歩かせ、自動車に乗せるのではあまりにもかわいそうだと幅六尺の道路に注意しながらそろそろと車を乗り入れました。道の片側は土手、他方には生け垣があり、植え込みのチャノキは堅くてたわみません。ボディにたくさんの擦り傷をつけてしまいました。狭い道だからと言うのに「いいよ、いいよ」と、乗用車のクラウンを貸してくれた勤め先の親父(おやじ)さんの渋い顔と言ったらありませんでした。

 1959年(昭和34)、菅谷に舗装道路が初めてできました。この頃の道路は、ほとんどが幅六尺(1.8m)位の砂利道でした。串引では小川町や寄居町男衾のお医者さんが病人の診察に来てくれましたが、道が狭くて患者の家まで車を運転して来れません。夜の往診で県道に停めておいた車が壊されたり、「追いはぎ」事件があったりして、医院間の申し合わせで夜間は来てもらえなくなりました。

土木工事は演習

 1964年(昭和39)、道幅を広げてお医者さんが往診に来られるようにしてもらいたいと道路改修の要望書が地元の串引から出されました。当時の新村建設五ヶ年計画(昭和35〜39年)や第一次農業構造改善事業では生活道路や農道の整備が重点施策とされ、遠山と玉川村小倉との間の槻川(つきがわ)にかかる谷川橋新設(昭和37年)、県道小川鴻巣線の国道254号線への移管(昭和38年)、太郎丸と川島の間の市野川にかかる精進橋竣工(39年)と道路や橋の新設、改修が行われています。串引道路の改修は、自衛隊の機械力を利用して早期完成を期すということになりました。

 自衛隊法第100条には、国、地方公共団体の実施する土木工事が自衛隊の訓練の目的に適合する場合には、その工事を引き受けて実施できるという土木工事等受託の条文があります。工事資材、燃料、輸送費を委託者が負担すれば、人件費抜きで、自衛隊の演習として土木工事が実施できるのです。

自衛隊道路

 自衛隊に早く来てもらうには、隊員募集に協力する組織を作るのがいいと言われ自衛隊協力会を作ることになりました。土地買収お願いの廻状(かいじょう)を回したところ応じられないとの反対も出て説得が夜おそくまで続くこともありました。地元の利益になることはわかっていても、「豆腐一丁の広さの土地でも増えれば、農家の身上(しんしょう)(財産)」と言われていた時代で、自分の家の田畑を削るのはたとえわずかでもたいへんだったんだよと青木保平(やすへい)さんは回想しています。農協の支部長(農事組合長)が署名のとりまとめをしてくれました。
 土木工事委託申請書は自衛隊朝霞駐屯地に出されました。村会議員をしていた市川紀元さんの熊農時代の同級生が幹部にいて越畑と言う文字に気づいて工事の順番を早めてくれたようです。陸上自衛隊古河施設大隊から作業隊約30名が派遣され、七郷公民館(旧七郷村役場)を宿舎としました。工事現場では、社宮司社(しゃくしさま)の幟(のぼり)台の旗竿に日章旗が掲揚されていました。
 1966年(昭和4)12月11日、自衛隊による越畑串引道路改良工事は竣工しました。この日には自衛隊協力会も発足しています。整備された道路は、ブルドーザーでズーコズーコと押して道幅を広げただけの法面(のりめん)も側溝もない道でしたが、自宅までトラックを乗り入れられ、商売がしやすくなったので、須永さんは、1969年(昭和44)、独立して丸越商店を始めました。

『広報嵐山』173号「里やまのくらし」2005年(平成17)9月1日 より作成

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