第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
里山のくらし
古里の大塚正市さんが七郷小学校の高等科に通っていた1932〜33年(昭和7〜8)頃の話です。ある晩、近所のいとこが病気になって、2里(約8km)ほどある小川町の清水医院に往診を頼みに行くことになりました。どうして大人がいかないのだろうと思いながら砂利のでこぼこ道を自転車を走らせました。古里から小川町にむかう県道は小川町の西古里(当時は男衾村)に入ると大きく右に曲がって切り通しの峠道になります。そのあたりをそうか坂といい、昔おいはぎが出たとか、夜な夜なあかりがついて何かが動いているといううわさのある場所でした。
ハンドルを右に切った時、砂利に自転車のタイヤをとられて倒れてしまいました。顔や手足をすりむき、自転車につけた懐中電灯もどこかにふっとんでしまいました。その時、向こうの方に赤い灯がいくつも見えます。「もしかしてこれが話に聞いていたむじなか」と思い、とっても怖くなりました。必死になって懐中電灯を探し出し、そぉーっと近づいてみると、それは峠で一服している大人たちでした。本当においしそうにキセルで煙草を吸っているのでした。荷馬車や自転車で熊谷方面に出かけ、用事を済ませて家路を急ぐ人たちだったのでしょう。
そうか坂を通る熊谷小川県道は大正時代からバスが運行された幹線道路でしたが、古里尾根(おね)の集落の中を通り抜けると人家はまばらになりました。
まんじゅう屋とよばれた岡島屋は現在の場所にはなく、坂近くに西古里の桶屋さん他数軒があるだけでした。現在通行禁止になっている切り通しの旧県道の入口に、飯野栄さんは昭和30年代に家を建てましたが、道を利用する人達から「灯りがあって助かる」と感謝されたほどさびしい所でした。
峠を越えた越畑の強瀬保治さん宅(幡巻(はたまき)の豆腐屋)は1kmはなれた隣家でした。周りが山だった強瀬さん宅は1910年(明治43)に建ち、隣の家は市野川を渡って約700m離れた奈良梨十字路のたばこ屋と酒屋さんでした。
大塚さんの古い日記を一緒に読んでいます。兵執(へとり)神社のささら(獅子舞)は、昔は毎年10月19日の秋の大祭に奉納されました。稽古は数週間前から始まります。1951年(昭和26)には、10月25日に「足揃い」(予行)をして、翌26日、奈良梨の八和田神社(お諏訪様)に獅子舞を奉納しています。大塚さんは「仲立ち・道化」を長く務め、現在もささらの指導にあたっています。
『広報嵐山』172号「里やまのくらし」2005年(平成17)8月1日 より作成