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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし3 市街地

人口の社会増と市街地の拡大

 1955年(昭和30)、4月15日に合併して誕生した菅谷村の人口は9393人、1583世帯でした。17年後の1967年(昭和42)、町制が施行されて嵐山町となった時の人口は1万148人、2091世帯です。人口は8%増、世帯数は32%増となっています。転入者が転出者より多くなり、人口の社会動態がプラスに転じたのは、平沢に菅谷村初の分譲住宅ができ、川島では明星食品嵐山工場が操業を開始し、鎌形には嵐山カントリークラブが開場した19661年(昭和36)からでした。
 1971年(昭和46)3月に東武東上線森林公園駅が開業し、国道254号線バイパスをはじめ交通網も急速に整備されるなど、1960年代末から70年代の比企地域は首都通勤圏としての性格を強め、住宅団地の開発が行われました。株式会社地産が志賀・川島の水田地帯に盛土をして宅地を造成し、900棟ほどの分譲住宅の建設を計画した地産団地もその一つです。この時、田は1反(300坪)100万円強で取引されました。
 町は、都市計画法に基づいた市街地整備を進めるため、県が線引きを予定した市街化区域に、地産団地と既設の平沢の金井団地を加えた267haを指定するよう要望書を提出しました。1970年8月、計画中の地産団地を含んだ227haが市街化区域に指定され、宅地造成が始まりました。
 町の人口は、1972年4月は前年4月より837人増、73年1669人増、74年569人増となり、3年間で925世帯増えました。とりわけ地産団地の分譲が始まった1971年9月から73年5月までは毎月50人以上の人口増加が続き、794世帯増加しています。

『広報嵐山』171号「里やまのくらし」2005年(平成17)7月1日 より作成

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