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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

里山のくらし

里山のくらし2 遠山

遠山の道しるべ

 国道254号バイパスをこえて、農産物直売所を左にみながら坂道をのぼり、昔、トンネルのあった峠をこえると、遠山の里が一望できます。峠を下り左折して谷川橋を渡れば玉川村小倉(おぐら)へ抜け、中央の道を西へ直進すると小川町下里(しもざと)に達します。緑と清流に囲まれた桃源郷といわれる遠山ですが、物資の輸送という点では苦労の多いところでした。

 現在の254号線の道幅が15尺(約4.5m)であった明治・大正のころの遠山の話です。1882年(明治15)に出来た遠山の新道は、書類上は道幅が12尺(約3.6m)でしたが、峠のトンネルのところが崩れたりして、人や馬は通れても荷車は通行できません。槻川には谷川橋はなく、少し上流に冬季だけの幅3尺位の板橋がありました。夏は川の中を渡って対岸の小倉へ向かいました。ここも荷車は通れません。

 菅谷・平沢から遠山を通り下里・小川へ抜ける道は遠山村道1号線で松山道・小川道と記されています。この道は折れ曲がりながら八幡神社まで9尺(約2.7m)の道幅でつづきます。そこから、まっすぐ槻川まで南下し、西に折れて川に沿って寒沢(かんざ)坂を越えて下里に入ります。この部分の道幅は6尺でした。

 この道と支道の交叉するところに道しるべが残っています。上から30cmほどの所で折れてしまって、「右か……/左す……」としか読めませんが、吉田又一さんの話では、「右かちみち」と刻まれていたそうです。徒歩(かち)道は幅6尺の道、馬道は幅9尺の道でした。6尺の幅では荷物を積んだ荷馬車は通行困難です。遠山から菅谷に荷馬車で行くには、下里に入り、水境(みずさか)を通って、志賀、平沢と大回りするほかなかったのです。運送引きの人たちに寒沢坂が難所といわれた理由です。

吉田又一さん、野原晃・ふく夫妻|
吉田又一さん(中央)と野原晃・ふく夫妻

下里・遠山の万作

 「東西東西。本日はご当所ご祭典につきまして、未熟者われら一同お招きにあづかりまして、有り難き幸せに存じ奉りまする」

 艶(つや)のある声が流れて来ます。声の主は野原晃さんの父直(なお)さん(故人)、明治から昭和30年代まで続いた下里・遠山の万作(まんさく)の最後の師匠です。弟子は安藤郁夫・安藤隆夫・加島博二・兼子文作・西原勇さんたち、下里の大正末から昭和一ケタ生まれの皆さんです。夜遊び仲間が誘われて、野原さんの家の台所の土間にむしろをしいて練習しました。

 万作の演目(だしもの)は、三番叟(さんばそう)・ねんねん子守・粉屋踊り・伊勢音頭など歌や踊りと、八百屋お七・安珍清姫・お軽勘平など歌舞伎の有名な場面を演ずる芝居とを組み合わせたものでした。役者は全員男性です。野原さんは女形でした。

 上演した場所は、地元の下里観音、北向不動のおこもりや遠山の八幡様の10月18日の秋の祭典はもちろんのこと、町内の平沢不動様、根岸観音、川島聞かず薬師、越畑観音様、小川町勝呂、越生町弘法山、鳩山町竹本、東松山市金谷まで、道具や衣裳を自転車の荷台につけて出かけました。

 八幡神社の秋の祭典収支帳によれば、明治初年から毎年、余興費が支出されています。娯楽の少ない時代に、「芸人」を招いての余興は大きな楽しみでした。でも、太平洋戦争が終わった1945年(昭和20)は、「時局柄余興費、祭典費一切ナシ」でした。戦後は映画、青年団謝礼、58年(昭和33)「テレビ御礼」などの支出が記録され、63年(昭和38)まで祭典費以外の支出は続きます。

 娯楽の多様化と男性が現金収入を求めて他所に働きに出る機会が増え、その後万作はすたれてしまいました。「私は万作をしたかった。昔の嫁には自由はなかったからねぇ」という野原ふくさんが、自分の好きな習い事を始められたのは54歳になってからでした。

『広報嵐山』170号「里やまのくらし」2005年(平成17)6月1日 より作成

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