第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
生活
例年、7月13日、14日の2日間、津嶌神社(菅谷神社内)の御祭禮での俄か作りの子供用の屋台(山車)が駅前通りを行く風景である。屋台(山車)は3輪か4輪のトラックに屋根と装飾を施したもののように見えるが、はっきりとはわからない。子供は男の子も女の子も見られる。小学校低、中学年の子供の様である。写真の左上部に見える御祭(おそらく“御祭禮”と書いてあったものと思われる)の文字が右から左に書かれているのも時代を感じさせる。現在ならおそらく左から右に書かれているであろう。撮影した位置は2008年現在の埼玉中央農業協同組合(JA埼玉中央)菅谷支店(当時も同じ場所に通称「農協」としてあった)の辺りからほぼ東の方角に向って撮られている。
次に屋台の右側に写っている建物であるが、この建物は当時の菅谷村全域(七郷村と合併前)の各農家の繭の集荷所で養蚕の時期になると方々から、この場所に繭が集められた(各農家が持って来た)。通称「荷受所」と呼んでいた。出入口は特になく、床の高さに雨戸があり(左側の映画館寄りなのでこの写真では見えない)特に鍵はかかっていず雨戸を開ければ自由に出入ができた。床は板張りで、中には莚が積んであるだけで、この建物の中に入り、子供の頃遊んだものである。
写真の左側に写っているの建物は映画劇場である。場所は2008年現在の埼玉りそな銀行東松山支店嵐山出張所の辺りに位置する。客席は1階しか無く、表側にあって映写室の部分のみ2階が造られ、2階から映写された。写真の上側に黒く見える部分が映写室の窓である。舞台もあり、舞台の奥に映写スクリーン(シネマスコープサイズ)が有った。正式名称は失念したが「菅谷映画劇場」とでも呼んでいたろうか。この映画劇場が建てられたのは昭和29年(1954)頃と 思われるので、この写真は昭和30年代、それも中頃迄のものではないかと推測する。この映画館(以後、映画館と呼ぶ)の全盛期は昭和30年代前半でその 後、映画はテレビの普及と共にテレビに圧倒され衰退してしまった。
この映画館の営業期間は10年と少し位と思われる。経営者は嵐山亭の石川氏で あった。この映画館へ回って来るフィルムはほとんど東松山市の映画館で上映されているもので、それも東松山の映画館2館のうち、上級館である「松山映画劇場」(通称、松映)で上映されているものは稀で、二流館である「銀映」で上映されている時代劇中心の二流、三流作品が多かった。「銀映」で上映されていた ものは「松映」で上映されている作品より封切り後、日時を経たものが多く、単純な娯楽作品が主流であった。でも、ときどき「松映」で上映されているものも 回ってきた。
当時、映画フィルムは1本のフィルムを東上沿線の数館で映写時間をずらして複数館共用で使っていて、入れ替え無し館が多かったので フィルムは厚いシートの様な丸い袋に入れられ、東上線の車輌の決まった戸口に無人で置かれ、フィルムを入れた袋だけが電車で移動。それを映画館の担当者が駅に取りに行って電車から下ろした。そして他の館に送るフィルムの袋を電車に積んだ。東上線はその頃は1時間に1本だったので、おそらく、綿密に映写時間とフィルムの配送スケジュールが組まれていたものと思われる。例えば、東松山→武蔵嵐山→小川町、小川町→武蔵嵐山→東松山というルートで。このようなシステムであったから東上線が事故などで遅れると、フィルムの未着のアナウンスがあり、映写が中断され、観客は待たされたものである。
写真の映画 館は外装もさることながら、内装は頗るお粗末で、フロアには土むき出しの土間。天井が張ってなく、梁(はり)が丸見えだったような気がする。観客用の椅子 は長年どこかで使用していたと見られる背もたれ付きの木製の2m位の長椅子、壁は土に藁を混ぜただけの荒壁。男子小水用トイレは昔の東上線の駅のトイレと 同じ。前面がコンクリートの壁で下側が溝になって3m位の長さになっている便器なしのトイレ。出入り口の戸も無かったか、または不完全で完全に仕切られて いる状態ではなかったから、悪臭が漂ってきた。初めて入館したとき、その未完成度に、まだこれから追加工事をするのだろうと思ったが終始そのままであっ た。それでも昭和30年(1955)頃の正月には満員で多くの立ち見客が出る程であった。
それから中学生の時、映画教室が行われた。上映された 映画の題名は記憶に無い。お粗末なのは建物だけでなく、映写機も当初は電球式の中古品で映像が非常に暗く不鮮明で見にくかった。2年位後、中古のアーク式 映写機に入れ替えられたので映像が大分明るく鮮明になったが、それでも極力アーク棒(電極)の消耗を少なくしようと、照度を暗く調整していたので、松映な どど映像を比較すると格段の見劣りがした。
また当時は深谷の興行師などにより浪曲がよく上演され、著名な浪曲師としては、三門博、浪花亭綾太郎、相模太郎、松平洋子などが来演し、聴きに行った記憶がある。
映画館建物は昭和45年(1970)頃には内部を重点に改装され、向かって左側(駅より側)がパチンコ店に改装されている。その後パチンコ店として営業を続け、元映画館であった建物がいつ頃取り壊されたのは定かではない。
この映画館ができる前、この場所は野天の映画、田舎芝居の常打ち場所で、いちばん奥に木造の仮設の様な粗末な舞台があった様 な気がする。左右に建物があり、その間に駅通りに面して外から見えないように2m位の高さの板塀が張り巡らされ、右側(南西側)に木戸口があった。映画は 月に数回、天候の悪くない日に夜一回だけ上映され、松山町(現在の東松山市)から、映写技師と携帯用の電球式映写機2台が来て、柱を2本立てた間に張られ たスクリーンに映写された。客席には莚が敷かれ、その上に直に座って見た。座布団持参で見に来る人が多かった。
この野天の通称「青空劇場」は昭和26年〜29年(1951-1954)頃の話で、野天なので雨天中止。また11月頃になると夜間なので大変寒く、袢纏などを着込んで来る人も多かった。また、フィルムもあちらこちらで使われ、傷んだものが多く、それ故、映像も悪く、俗に「雨が降る」と言われたものが多かった。それから映写機が電球式のため照度が低く画面が暗く見にくかった。フィルムは傷んでいる物が多かったためが、材質が悪かったためなのか、または映写機が悪かったのか、とにかくよく切れて、2本立てで10回前後は必ず切れたように記憶している。それでも娯楽の少ない時代、結構入場者が当時の菅谷村の人口に比べてあったと憶えている。近隣の唐子村、宮前村、七郷村などの菅谷寄りの人も見に来ていたためではないかと思う当時子供の入場料は20円位であった。また寒いので冬期の興行は 行われなかったような気もするが記憶に定かではない。
芝居の興行も年に数回行なわれ、玉川千鳥一座の興行が多かった。玉川千鳥一座というのは、 言うなれば芝居好きの半素人集団で座長の玉川千鳥(八木原儀三郎氏)始め、ほとんどの座員が普段は別に職業を持っていて、稽古の時とか、本番の興行の時と かだけ参集したのである。たまに、他の一座の芝居や水芸、田舎歌舞伎の掛かることがあった。
(権田文男)