第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
生活
諺に「酒は百薬の長」とか「酒は憂さの玉箒(たまばはき)(蚕室を掃くのに用いた箒の称)」といわれて、酒を愛飲する人は多く、また、日本人には「古来百礼ノ会酒ニ非ラザレバ行ハレザル」と云うように、冠婚葬祭は勿論祭礼、祝宴、各種行事にと、寄れば触れば酒となる慣習が横行していた。
その様な中、一九一八年(大正七)古里の安藤幸蔵は「酒一合会」を発起した。その趣旨を見ると、
酒に十の徳ある事を肯定しながらも、「多量ニ過クルトキハ自ラ産ヲ傾ケ身ヲ滅シ命ヲ縮メ徳ヲ失フ等其害至ラザルハナシ」と、酒を一種の悪液ときめっけ、その上で古人の「酒ハ微酔ニ飲ミ花ハ半開ニ観ル」の言を引いて、飲酒は一合を適度と定め、祝祭冠婚は二合を限度とすることを提唱した。
禁酒運動の歴史は古く、1875(明治8)横浜で禁酒会が組織されたのに溯る。その後1890年(明治23)禁酒雑誌「日の丸」発刊、同じ年東京禁酒会結成、1898年(明治31)大日本禁酒同盟も組織されている。一方、万国婦人嬌風会は1886年(明治19)レビット夫人を、1890年(明治23)にはアッカマン嬢を日本に派遣、各地で公演、1892年(明治25)には世界禁酒会会頭ウエスト嬢が来日、各地で演説会をひらいて啓蒙に努めた。こうした情勢を背景に幸蔵の「酒一合会」は誕生したものと思われる。
また、本会発起の趣旨の末尾に「一ハ自己ノ修養ニ資シ一ハ風教ノ改善ヲ図ル所以ナリ」と記されている。1917年(大正6)政府は第一次世界大戦後の好況による浮華嬌奢の弊を改め、勤倹節約の美風を浸潤させるため民力涵養運動を展開した。それに対処して1919年(大正8)古里においても「風俗改善申合規約」十ヶ条が制定執行された。規約のうち酒に関する箇所は冠婚の際の「饗応ハ一人ニ付二合又ハ三献」、「凶事ニアリテハ飲酒ヲ廃シ」、「入営除隊祝ハ神酒一升」、参宮の時は「出発帰郷ニ際シ酒宴一切廃止」等々であった。幸蔵の「風教の改善」の一念はここに具現されたと言えるだろう。
酒と風俗習慣とのかかわりは深い。父金蔵が風俗改善実行委員になったこともあって、幸蔵自身もその実践に挺身、1922年(大正11)県募集の生活改善標語に応募、「驕ルナ飾ルナ礼欠ナ」ノ一文で二等に入賞した。その文の頭に「酒飲ムナ」の一語をいれたかったのではないだろうか。しかし、「節酒」による矯風はそれ程の実をあげえられなかったのか、1923年(大正12)彼は遂に「禁酒致シ候ニ付辱知諸君ニ謹告仕候」の一文を各方面に送って禁酒してしまった。
生活改善運動標語綴
1921年(大正10)、埼玉県に社会課が新設され、社会事業や社会教育事業を積極的に推進、翌22年(大正11)、生活改善事業推進のため標語を募集した。多くの応募があり、賞金は一等30円、二等20円、三等10円だった。