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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

生活

村人の楽しみ2

大和座の歌舞伎芝居

 1922年(大正11)、大字志賀の大野角次郎は芝居を観た。芝居の花代として1円、木戸花18銭、芝居木戸銭60銭(3人分)を出している。家人と一緒に観に行ったのであろう。この芝居は志賀の人々が勧進元【芝居の興行主】になって、大和座を招いて、10月2、3日興行したものである。
 会場は志賀字北町裏1094番の畑1反7畝15歩の土地に舞台や桟敷(さじき)【床を高くした見物席】をつくった。舞台は間口3間、18坪の広さである。観覧席には琉球ムシロを敷き、引き幕もかけた。警官席も設けられている。畑地なので「雨天順延」としている。舞台を設置する業者は大里郡寄居町の大久保安五郎である。請負金は120円である。芝居は坂東大和座(文末の「大和座と秩父の歌舞伎芝居」参照)が行なう。芝居約定金は170円、さらに秩父郡三澤村【現皆野町】の太夫元尾上松之助(高砂屋)から、俳優鑑札のことについて手紙も届いている。「村内警察に御話置被下度候」という文言の文書が残っているが、これは1873年(明治6)以来、警備上の問題などのため神楽・相撲・演劇などの興行は警察や役所に届出制になっていたからである。警官席をもけたのもその関係である。

芝居鑑賞の広がり

 舞台設置と芝居そのものに290円の元手が必要だが、これは村の有力者層を招くことで花代を確保したのだろう。志賀では勧進元2人、世話人10人、後見6人合計18人のグループで、応接係、帳簿係、木戸係、置返係、札係、小湯係、湯番、小物係、廻り番などの役割を分担した。主催者のためか観客名簿に志賀の人の名は載っていないが、
平沢、遠山、千手堂(11名)、鎌形(10名)【以上菅谷村 現・嵐山町】、吉田(20名)、越畑(おっぱた)、勝田(かちだ)、広野、杉山、太郎丸(10名)【以上七郷村 現・嵐山町】、水房(10名)、伊古山田【以上宮前村 現・滑川町】、高谷(こうや)、奈良梨、能増(のうます)、伊勢根、下横田、中爪(なかつめ)(20名)、【以上八和田村 現・小川町】、下里(しもざと)(12名)、下小川【小川町】と近隣の広範囲の村からまとまって観に来ている。こうした組織的に来てもらう観客と、一般の木戸銭で入る観客と二通りの人々で芝居興行を成り立たせたのであろう。
 何を演じたかは記録されていないが、「大和座」を呼んだ興行なので秩父で盛んな歌舞伎芝居であることが分かる。秩父地方では小鹿野の「大和座」と長瀞の「和泉座」が、明治から大正時代に歌舞伎芝居の最盛期を作り出し、秩父を始め各地で演じていた。志賀で大和座を呼んで行なった歌舞伎芝居の史料は、当時の歌舞伎興行の取り組み方を具体的に示すものである。観客は近隣の比企地方の村々からも来ていて、歌舞伎を楽しむ人々の広がりのあることがわかる。明治・大正時代に歌舞伎興行が比企地区の村々で盛んに行なわれたのである。
 1882(明治15)旧7月14日、七郷村大字古里で行なわれたと思われる芝居の史料には、やぐらの組み立て、芝居の花金主、芝居中人足、芝居入費、坪売方控帳(勧進元)小道具借り物帳等が残っているが、どこの誰が演じたか、芝居小屋をどこに設置したか、演目などは不明である。志賀と同様自分たちで勧進元をつくり、役務を分担し、芝居を行なったことは明らかである。
 大野角次郎の1893年から1938年の『家計詳細録』には、月輪(つきのわ)芝居、中尾芝居、越畑(おっぱた)芝居、横田芝居、川島芝居、羽尾平(はねをたいら)芝居、遠山芝居、古里芝居、中爪芝居、水房芝居、不動様芝居【八和田村奈良梨、 現・小川町の普光寺カ】、高谷(こうや)芝居、福田芝居、吉田芝居、スワの芝居【宮前村羽尾裏郷 現滑川町役場南の諏訪神社】、松山芝居、手白芝居【吉田の手白神社】、志賀芝居、菅谷芝居、唐子(からこ)芝居、と1年に1、2度周辺各村の芝居を観に行った記録が残っている。

その他の多様な催しも

 それらに加えて、個人の家で行なわれた天俵屋義太夫、団子屋(説教節、義太夫)、瓦屋人形芝居等が出てくる。年代は不明であるが、古里の中村八郎宅で行なわれた悟楽斉三叟師・東家燕城講演の木戸通券が残っている.明治時時代のものであろう。また中村武八郎が会主で、記念画会抽選会が小川田中楼で行なわれた。賛助会員45名の中には、井上万吉、田中波吉、安藤寸介、安藤照武、中村清介等の名前が見える。1887年(明治20年)初め古里の養蚕改良組合に加わった人もいる。

大和座と秩父の歌舞伎芝居

 今も小鹿野町の歌舞伎芝居は地元の人たちによって保存されて、毎年町内の神社の祭礼で演じられているが、秩父地方に歌舞伎をもたらしたのは井上【吉田町、現・秩父市】の坂東彦五郎であるといわれている。彼が活躍したのは江戸時代の文化・文政の時代(1804-1830年)で、この頃江戸の文化が盛んに地方に伝わり秩父の人形芝居や歌舞伎が始められるようになった。彦五郎の名を継いだ三島の根岸勇三郎は初代音羽屋彦五郎と名のり、1883年(明治16)二代目彦五郎の没後、弟子のうち黒谷【秩父市】の坂東大和と奈倉【小鹿野町】の坂東秀舎が二代目の組織した「天王座」を引き継いで「大和座」を組織した。この大和座と長瀞の「和泉座」が、明治・大正時代の秩父地方の歌舞伎芝居の最盛期をつくり上げた。当時、秩父地方はもとより群馬県でも興行を行った。
 昭和になってから映画などの流行で、しだいに歌舞伎芝居は衰退していったが、やがて文化財保護の機運が高まり、1973年(昭和48)に小鹿野歌舞伎保存会が結成され、1975年には県指定無形文化財、1977年(昭和52)には県無形民俗文化財の指定を受けた。現在、小鹿野町内では十六・小鹿野・津谷木・奈倉・上飯田の5ヶ所で伝承され、それぞれ地元の神社の祭りに氏子が中心になって歌舞伎を演じている。最近では小・中学生による子ども歌舞伎、若手歌舞伎。女歌舞伎の一座も活躍し、後継者への受け継ぎも盛んになっている。(この稿 小鹿野町教育委員会「小鹿野町歌舞伎のあらまし」による)

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