第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
生活
今日のようなラジオ、テレビ、自動車、鉄道などが高度に発達した時代と違ってまだそれらのなかった明治の時代に、村人は生活のなかでどんな楽しみ方をしていたのだろうか。当時の村の旧家に残されている古文書を通して見てみよう。
1867年(慶応3)、菅谷村志賀に生まれた大野角次郎の「家計詳細録」には、角次郎が出かけた芝居や発句(ほっく)の会【俳句】、温泉旅行、伊勢参りの費用がもれなく記されている。1893年(明治26)から1938年(昭和13)までの娯楽関係の記録を見ると、芝居、発句,噺家(はなしか)【落語、滑稽話、人情話などをする人】、義太夫(ぎだゆう)、説経節(せっきょうぶし)、踊りなどに加えて、活動写真(1908年 明治41)、旅順実戦口演士(1913年 大正2)、菅谷競馬(1913年)、浪花節(1914年 大正3)、幻灯、薩摩琵琶(さつまびわ)、盆踊り、衛生芝居、撃剣(げっけん)会【剣術会】、女義太夫などがある。俳句の宗匠(そうしょう)【師匠】を招いての発句の会も村の上層の人々の楽しみであった。村に残る句集から、それをうかがうことが出来る。
伊勢参りについては、江戸時代の資料も多く残っているが、明治以降の記録も多くある。江戸時代には2〜3か月かかったものが、1906年(明治39)には行ったときは11日間である。東海道線が1889年(明治22)に開通し、汽車が利用が出来るようになったからである。(詳しくは『嵐山町博物誌調査報告 第二集』1997年参照)
伊勢参りの時には、餞別をもらい、土産を買ってくる。大野家の場合、旅費の費用は27円65銭、土産の費用は8円3銭かかった。餞別は1人10銭から1円、合計6円20銭。土産は帰ってから整えたものもあると考えられる。手拭、じゅばん、単衣、風呂敷,へこ帯、団子とさまざまである。
千手堂の高橋金次郎の日誌(1914年 大正3)には、「光照寺に浪花節あり」(1月15日)、「例年の通り春遊」(3月15日)、「明治年間に伊勢参宮せしものの大正天皇即位記念として鎮守様へ奉燈を納むる件集会決議す」(3月26日)、「父は光照寺へ施餓鬼(せがき)に行く」(8月14日)、「鎌形神社へ参拝、流鏑馬(やぶさめ)見物に行く」(9月15日)、「太郎丸の芝居へ役務あり」(11月4日)、「弟は玉川競馬に出頭す」(11月9日)、「休日につき上州太田呑龍上人に参拝に行く(自転車にて)」(10月18日)等と記されている。自転車は実用の他娯楽のための手段であった。
さらに、人々が集まり酒を飲む、あるいは交流する楽しみと考えられるのが講(こう)【神仏に参拝に行くために組織する団体。伊勢講、二十三夜講、稲荷講など】、日待(ひまち)【農村などで田植えや収穫の終わったときなどに集まって会食や余興をすること】である。大野角次郎家の場合も志賀に居住する間は、女日待(3月15日)、女あそび(4月23日)、男日待、大遊び、石尊講【大山詣での講】日待(8月1日)、御九日(10月25日)、子供天神講(2月15日)、雨乞い、悪厄(あくやく)よけまつり(8月24日)、210日日待(9月)、下組日待、榛名講、水引日待などが行なわれ、出席している。高橋金次郎の日記に出てくる日待や講も同様のものが出てくる。
女日待、女あそびは、一家の主婦が多い。女性自身が一日いくらと金を集め、砂糖やだんごや豆腐汁をつくって食べ、あるいは持ち帰り、交流した。例えば1907年(明治40)の場合、古里の千野いよが「宿」をつとめた。参加の口数は30人、黒砂糖三貫目代1円77銭、豆腐10丁代18銭,合計1円95銭,1口の掛金6銭5厘である。団子の材料は、持ち寄ったのであろうか。宿は年々かわっている。(千野久夫家文書22番)