第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
生活
1872年(明治5)11月9日、それまでの旧暦(太陰太陽暦)に代わって太陽暦採用の太政官布告がなされた。これにより日本はそれまで行なわれていた太陰太陽暦である「天保暦(てんぽうれき)」を廃止して、明治5年12月3日をもって太陽暦の明治6年1月1日として、世界的に普及している暦(こよみ)に切り替えた。太陽暦は1年を365日として、12ヶ月にわけ、4年毎に1日を加える閏年(うるうどし366日)を設けた。そして昼夜を24時間に均分し、前半を午前、後半を午後とすると定められ、人びとは時計の定める定時法にのっとって生活をするようになった。それまで町や村では時の鐘や時の太鼓などによって時刻が報じられていたので、これは大きな変化であった。
暦には、太陽暦・太陰暦・太陰太陽暦の三種類がある。太陰暦は月の満ち欠けの周期を基準として暦を作った。月の周期は29.5日余なので、それを12倍して1年にすると1年の日数が354日になる。太陽の運行から1年は365日余なので太陰暦では11日も短くなる。これを繰り返すと季節が大きくずれていく。そこで太陰太陽暦では、2、3年に一度、平年より1か月多い13ヶ月の年を設けて季節のずれを調整した。これに対して1582年に定められたグレゴリオ暦(太陽暦)は、現在世界で広く使われている。この暦は1年を365日として4年ごとに閏年をおいて366日とし、100年ごとに閏年を省(はぶ)き、400年で閏年を97回とするものである。この暦によって季節のずれはほとんどなくなった。日本は明治6年からこのグレゴリオ暦を採用したのである。
グレゴリオ暦の採用を政府が決めても、広く浸透するのにはかなりの月日がかかった。旧暦の時代には、年毎に大の月(30日)、小の月(29日)の順序で代わった。例えば柴崎村(現立川市)鈴木平九郎は日記の最初に、「天保十巳亥年凡三五四日、大=二、五、七、九、十、十一月、小=正、三、四、六、八、十二」と記している。この記述で明らかなように、天保年間は旧暦なので1年をおよそ354日として、大の月小の月と記述されているのがわかる。この旧暦による生活が永年続いてきたので、新暦と旧暦の日数のずれは、単純に1ヶ月の問題とはいえない。旧暦による生活のリズムは、農業労働とそれにかかわる自然への信仰、経験、迷信等と一体化していただけに、農村社会においては、旧暦による農作業、農休み、行事が根付いていた。したがって、容易に新暦での国家行事は民間に浸透しなかった。1887年(明治20)12月、国は太陽暦遵守、国家祝祭日履行の請け書を取った(内田喜雄家文書102)。国の苛立ちがうかがわれる。国家の行事は全国の学校行事を通して徹底させられていった。そのことは明治25年来記録された大野角次郎の『家計詳細録』を見ても明らかである(『嵐山町博物誌調査報告』第7集、2002年)。
大蔵の山下菊次郎の農事日誌にも、「明治四拾参年旧四月一日、新暦五月九日」と、旧暦と新暦の月日が併記されている。しかし時間については、「起床六時四拾分、就寝午後拾壱時」と毎日記されているように、時計の時刻による生活がなされている。
日の出とともに働き、日の入りで仕事を納める農作業に旧暦がなじんでいたのに比べて、農家の副業である養蚕関係では、動物を育てるということで時間を気にする。大蔵の大沢清が記した1901年(明治34)「養蚕飼育表」には、「午前八時五八度(華氏【華氏温度】)、正午七十四度、午後一時掃立(はきたて)【卵からかえったばかりの蚕を蚕卵紙から移すこと】、午後八時七二度、給桑(きゅうそう)【蚕に桑の葉を与えること】二回」等と時間、気温を明記している(大沢知助家文書204)。この時間を気にする養蚕の場では早くから「時計」が取り入れられた。古里に作られた養蚕改良組合の『養蚕伝習所用具記載帳』(明治21年10月)には、ランプ、ハルメトル乾湿計、顕微鏡と並んで「大時計」の名が記されている(中村常男家文書722)。時計が養蚕の大事な用具であることが分かる。
日本では1862年(文久2)にオランダに派遣された留学生の一人大野規周は帰国後、1876年(明治9)に大時計を製作、この頃前後して時計作りが始まり、1881年(明治14)の第2回国内勧業博覧会には、四方時計、ポンポン時計、八角時計が出品されている。時計店も出来て、アメリカ製の時計なども展示されるようになった。明治20年代のアメリカ製柱時計の価額は、1個5円程度、スイス製懐中時計の価額は1個当たり5〜20円であった。明治20年までにクロック(柱時計)の累積輸入量は約70万個に達していたという。これは官公庁、学校、会社銀行等への時計設置が進んだことも一因とする。七郷、菅谷、役場でも時計が使われたであろう。時計の小売店も増えた。
次に、嵐山町の史料で「時計」に関する記述が出てくるのは1893年(明治26)からで、それに続く資料もいくらかあげておく。これによると明治20年代の後半から時計が嵐山地域にも普及し始めたことが分かる。
安藤 1893年3月3日 7円50銭 田中時計店本舗
大野角次郎 1895年6月時計購入 4円25銭 (大野浩家文書1)
山下 1895年 精工舎製掛時計 4円25銭
川越町坂本屋(時計店)(山下豊作家文書224)
中村国治殿 1896年4月14日 時計保険証書
木側 掛時計精工舎製 4円80銭
川越南町坂本屋 関谷幸十郎(中村常男家文839)
大野角次郎 1896年(明治29)東京で時計購入(懐中時計)*1
新井ハツエ 1896年5月21日 時計保証書
市川貢家 1900年 保険之証 熊谷時計商小林清蔵
*1:当時大野角次郎の月給は10円であった。村の教員の月給1月分の値段である。1936年まで、ガラス直し、みがき、油引き、直し等をして40年間使用している。もうこの時期には、村の上層の人々は柱時計を購入、懐中時計を所持することが出来るようになったのではないか。