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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

生活

庶民の楽しみ相撲(角力)

軍配の墓石|写真
軍配の墓石
 相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸の三大娯楽の一つであった。相撲の歴 史は古い。吉田の小林武良家に伝わる嘉永元年(1848)に書かれた「角力軍配記」によれば、神代天照大神天の岩戸隠れの時、岩戸の前でたじから王の尊(天手力男命)他三柱の神が力争いをしたところ大神感応ましまされ岩戸を開かれた、と云う故事をもって「是則天下泰平国家安全五穀成就の祭り事の第一、神代角力の初まり是なるべし」としている。奈良平安の頃は「相撲の節会」といって毎年七月諸国から宮中に力士を集め天覧相撲がおこなわれていた。武家時代に入っても頼朝・信長・秀吉達も相撲を武術として奨励し、家来の力自慢を戦わせて楽しんでいた。江戸時代にはいると相撲人気は高くなり、庶民の間にも相撲興行が行われる様になった。幕府は質素を旨とする政策からこれ等の娯楽を牽制し、神社仏閣の建立や修復を名目に有料の勧進相撲の興行を許すこととなった。深川富岡八幡・芝神明社・浅草大護院・両国回向院等の境内で、晴天十日春秋二度興行が行われ、相撲取りは「一年を二十日で暮す良い男」といわれるほどの人気であった。こうした賑わいも三都(江戸・大坂・京都)のことで地方における相撲の記録は少ない。
 ただ、ここに菅谷の関根家に残された一通の手紙*1がある。江戸の綱錠鉄五郎(あみじょうてつごろう)から須ケ谷宿(今の嵐山町菅谷)の御所嶋源七(ごしょじまげんしち)に宛てたものである。御所嶋源七は菅谷東昌寺に軍配の彫られた墓石*2の人物で、享年は不明であるが天保2年(1831)死去した関根源七である。それにしても「御所嶋」の名に疑問が残る。御所嶋の名は江戸の相撲界に散見される。特に文政年間の大相撲星取表に文政6年(1823)から12年(1829)まで二段目として御所嶋の名が見える。この四股名(しこな)の人物が源七であればおもしろい。墓石の軍配とも符合する気がする。
 この手紙は何時出されたものか。文中に「正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様死去」とあり、赤羽根はいまの港区三田赤羽で、ここに久留米藩の江戸藩邸があり、相撲好きの殿様第八代有馬頼貴(よりたか)が文化九年(1812)にここで亡くなっている。即ち文化9年(1812)の手紙である。内容は殿様の死去によりお抱えの力士に暇が出された。(当時の角界は力士が大名家に抱えられ、場所に出て活躍し家名をあげた。)暇を出された力士は他の大名家に召抱えられたが、山脚(やまあし)と云う力士は抱え先もなく国元へ帰りたいが費用もなく困窮しているので、御所嶋のお世話になり華角力興行を催し、路銀を都合してもらいという依頼状である。尚、「大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候」とあり、大場所は回向院の春場所のことで四月に延期になった事を知らせて来ている。当時の江戸の相撲界のことも分り、思うに世話人御所嶋源七は山脚のために華角力(花相撲、本場所以外に地方で臨時に興行する相撲)興行を催したであろう。
 江戸から菅谷の関根源七へ手紙が届いた文化9年(1812)に源七はすでに御所嶋の四股名を持っており地元で相撲興行が可能な顔役であったこと、江戸で星取表に御所嶋の四股名が見られるのは手紙到着後の文政6年(1823)から12年(1829)であることを考えると、菅谷の御所嶋と江戸の御所嶋とはどうやら同一人物ではなさそうである。

 明治にはいっても、4年(1871)未だに「五人組帳」(村民の守るべき諸法則が箇条書され、村民全員の証印がなされている帳簿)を新政府に提出している。その前書に「狂言 操 相撲之類堅く仕間敷」と、若し仔細あれば訴え所へ申し出て御下知を得なさい、ということで庶民の楽しみ相撲は厳しく禁じられていた。ところが明治13年(1880)になると広野の森田角蔵が相撲興行願を戸長に提出した。それによると東京本所の相撲年寄玉垣額之助(15代玉垣額之助 嘉永3年生、明治38年没幕下まですすむが病気で廃業年寄となる、日清戦争では同志50人を率いて慰問興行を行う)外20名を雇い隣地(=森田千代吉の所有地)を借り受け、8月25・26日の両日雨天順延、大人2銭・小人1銭の木戸銭で催された。当日お客さんは二日間で大人607人、小人328人と大盛況であった(相撲興行が行われた場所は川島にある鬼鎮神社西裏であったと思われる)。ついで同年(1880)10月玉垣額之助が願人となって大関鶴ケ濱・菊ケ濱外26人の力士を引き連れ大蔵あたりで興行したのだろう、手書きながら立派な番付表*3が残されている。番付表によれば行司は木村藤次郎、呼出し末吉と名を連ね、なかには都幾石とか吉見山、荒船など地元出身と思われる四股名も見られ、本場所さながらの興行の内にも地方色もみられ、大いに観客を楽しませた事であろう。
 下って明治21年(1888)9月勝田村の利根川惣吉が勧進元となって、19日東京角力興行が行われ、翌年(1889)3月には田口百太が勧進元で若者達が世話人となり、能増村(のうます、旧・八和田村、現・小川町)で15・16日東京角力興行が行われる旨、木版刷りの広告が配られた。このようにして庶民の楽しみとしての相撲が定着していった。

*2:関根源七の墓石(嵐山町菅谷・東昌寺)
*3:1880年10月の番付表(大蔵・大沢知助家文書No.664)
*1:綱錠鉄五郎から御所嶋源七への手紙は、次のとおりである。

須ケ谷宿
   御所嶋源七
      人々御中
           従江戸
             綱錠鉄五郎 
以手紙致啓上候
向暑之砌(みぎり)弥(いよいよ)御安全珍重之御義ニ奉存候然者先達ハ御世話ニ預リ千万忝(かたじけなく)奉存候其砌御礼御状差上度候共種々取逃シ御座候間大キニ延引仕候
然処正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様御死去被遊候御抱角力衆中御暇ニ相成残江戸ケ崎楊羽大岬御抱ニ御座候
随而山脚事当時甚タ難儀仕在罷候国元へ登リ度候共物入多ク御座候故何分国元へ罷登候節貴公様御世話ニ而華角力興行仕度候間何分宜御世話被下候様奉頼上候
御屋敷様より御暇ニ相成候角力衆中者出羽安波西尾津軽様此御屋敷へ御抱ニ相成候且又大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候
其御地福田村善吉と申者東関方へ参り度由申候間私同道ニて先親方様罷(まかり)居候間乍憚(はばかりながら)御安心可被下候末筆乍半兵衛様紺屋様磯五郎様牧馬様文七様八五郎様尚又貴公様より皆々様へ宜敷御伝言可被下候
右御礼申上度如斯ニ御座候   以上
  三月廿二日
             綱錠鉄五郎
   御所嶋源七様
尚々御家内様へもよろしく御伝可被下候末筆乍六間【菅谷に隣接する現・滑川町六軒?】之大様友様へも宜敷く乍憚御伝言可被下候ひとへに奉頼上候以上

この手紙を紹介した『埼玉新聞』の記事を紹介しておく。

江戸の草相撲知る古文書
   嵐山町 軍配の墓石きっかけに
        地方の相撲なまなましく

 軍配を彫り込んだ墓石の発見をきっかけに、江戸時代の草相撲を知る手掛かりとなる古文書がこのほど比企郡嵐山町で見つかり、東京に住む古書店員によって解読された。相撲に関する文献は江戸や大坂などのひのき舞台のものは多いが、それを支えた地方の状況を記した資料は貴重−と関係者は言っている。
 軍配を彫り込んだ墓石があったのは嵐山町の東昌寺。同町に住み、東松山演劇鑑賞会で活躍する柴崎富生さん(52)は戊辰(ぼしん)戦争当時新撰組、新徴組で活躍した甲源一刀流の剣士について調べていたが、今から七年前、歴史を知る重要な手掛かりとなる墓石の墓碑文を訪ね歩いていた時、軍配の墓石が目にとまった。墓の主は「通山良逢居士(俗名・関根源七)」(天保二年死去)。この墓石に興味を覚えた柴崎さんは、刻まれた碑文から子孫で同町に住む関根昌昭さん宅を訪ねたところ、一通の古文書を手渡されたという。
 古文書は縦十五センチ、長さ百四十センチほどの大きさで、九州久留米藩の相撲を取り仕切る綱錠鉄五郎から比企郡の草相撲の世話人御所嶋(関根)源七に送られたものだった。
 柴崎さんは、古文書の解読を東京杉並区に住む知り合いの古川三樹松さん(88)に依頼した。古川さんは「図説 庶民芸能―江戸の見世物」「江戸時代大相撲」の著書があり、当時の相撲に詳しい。明治四十三年の大逆事件で非業の死を遂げ、作家水上勉氏の著書「古川力作の生涯」に描かれた力作の末弟に当たる人。柴崎さんは古川さんに解読を依頼していたことをすっかり忘れていたが、古川さんは今年になって古文書を研究している東京大田区の古書店店員高橋徹さん(31)に「勉強の資料に」と預けた。
 高橋さんは資料を読み、歴史を研究するのが趣味だが、相撲にはまったくの門外漢。古文書の解釈そのものは古文書仲間に手伝ってもらいすぐ終わったが、時代背景や当時の比企郡や相撲の状況を分析するのに手間取った、という。研究しているうちに、内容のおもしろさに引き込まれた高橋さんは、受講している古文書講座の記念文集に加えることにし、八月柴崎さんに解読の成果を送ってきた。
 高橋さんの解説によると、この文書は文化九年(一八一二年)三月二十二日に綱錠鉄五郎から御所嶋源七にあてたもので、世話になった礼が述べられた後、同年一月に主君の久留米藩第八代藩主有馬頼貴が六十八歳で亡くなったのを機に、お抱え力士の多くが解雇されたり、他藩にスカウトされたことが書かれている。さらに山脚早助という力士にもヒマを取らせたいのだが、出身地まで帰るのに費用が掛かるため、ついては引退相撲を興行してもらえないか、と頼んでいるほか、比企郡出身の預かった力士は心配ないから世話人にもよろしく伝えてほしい―などとの内容になっている。
 高橋さんは「この文書を初めて読んだ時、無名力士の悲哀が行間からひしひしと伝わり、身につまされた」と語っている。
 この文書のことをすっかり忘れていた柴崎さんは、高橋さんの研究成果を目にし、思わぬ発見をしたという。柴崎家には、先祖に半兵衛という大男で草相撲の強い力士がいたとの言い伝えがあるが、この文書で鉄五郎に名指しされた世話人の一人に「半兵衛」の名が記されていた。どうやらこの半兵衛が言い伝えの半兵衛らしいということが分かった。
 柴崎さんは、「相撲と芝居の違いはあるものの、今も百八十年前の昔も興業は似たところがあり、身近なものに感じた」と感慨深げに語っていた。

『埼玉新聞』1989年(平成1)9月28日

参考文献・資料
関根昌昭家文書 書簡
小林武良家文書153 角力軍配記
藤野治彦家文書174 五人組帳前書写
広野区有文書216 相撲興行願
大沢知助家文書664 相撲番付表
田島栄定家文書16 舌代
田島栄定家文書110 舌代
他 日本人名大事典・大相撲星取表・フリー百科事典
  江戸の相撲・幕末期の角界・江戸時代館
東昌寺 関根源七墓石

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