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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

生活

江戸時代の隠居 その生活保証

 今の世の中で「隠居」という言葉は余り聞かれなくなったが、江戸時代には人生の中で或る時、第一線を退きやや閑な人生を過ごすという風調を 「隠居」と称した。厳密には世帯主が生存中に自分の自由意思によって所有する権利を相続人に譲って閑居することを言う。武士は主君にお役御免を願い出て、 子息に家督を譲って隠居の身分となる。町人は店の中心から退くことを宣言して息子なりしかるべき後継者に財産権利を譲り、自分は隠居所に閑居する。農民は 所有する田畑を息子に渡して閑人となる。こうした人々の生活の保証は得られたのだろうか。

 1820年(文政3)、宗心寺十四世周山は住職の席を後任雉賢和尚に譲った際「隠免之記」なる書付を送っている。退隠する者が現当主に隠居後の生活保証を約束させたものである。その内容は次の通りであった。

一、田方四反七畝歩(年貢諸役は先勤)
一、胡麻一升六合
一、小豆三升
一、大豆六升
一、味噌半樽余
一、醤油壱樽と壱升
一 、堅木真木入用次第
一、小麦粉 少々宛ニ貰い
一、蕎麦粉 少々宛ニ貰い

 「年々被下候」とあるので生存している間毎年これだけの手当ては受けられた。一人の食生活を賄うに不足はなかったろうが、衣・住の費はどうしたのだろう。田四反の収穫を換金してそれに充てたのだろうか

 1849年(嘉永2)に同じ宗心寺において現住職の隆暁が閑居大和尚(十七世劫外と思われる)に「隠居免議定一札」を差し出している。内容は次の通りであった。

一、金三両也 年中小遺
一、玄米拾俵 年中飯米
一、真木 入用次第
一、野菜 入用次第
一、蕎麦粉 入用次第
一、小麦粉 入用次第
一、大小豆 入用次第
一、胡麻 壱升
一、水油 三升
一、餅白米 壱斗
一、醤油 弐樽
一、味噌 壱樽

  「御存命中年々其都度入用次第」と極めて心強い一文が添えられている。内容は前者とあまり変わっていないが、三両の金を一年の小遣として差し上げるという のは有難い限りで、三両もあれば贅沢しない限り一年位生活出来たという時代にあっては生産性の少ない老人にとって余裕のある生活が保証されたことになろ う。

 僧家の二例をみたが、俗家(農民層)においても類似の書付が見られる。

 1802年(享和2)古里村の武兵衛が実父五郎右衛門に「賄料相渡シ申」という一札を差し出している。恐らく五郎右衛門が退隠し実子武兵衛に家督を譲った際、隠居の生活費として約束したものであろうう。内容は次の通りであった。

一、下郷地ニ而すな畑(川沿いの荒砂混じりの畑) 弐枚
一、同所畑添之田 壱ヶ所
一、同所下ニ而すな畑 壱枚
一、寺ノ後ニ而大畑 壱枚
一、柏木山壱ヶ所
一、新林山 壱ヶ所
一、下郷地下ニ而麦畑 九升蒔

  全部が田畑・山林である。一枚・弐枚というのは一区画・二区画というほどの意味で広さを特定していない。山にしても一ヶ所というだけで広さは不明である。 しかし百姓にとって土地が財産であり、土地から生ずる果実、米・麦・野菜・薪等によって生活が支えられていたので、土地が隠居の賄料となったのであろう。 この一札の末尾に「若シ又親父様江不和之義も御座候ハヽ加判之者共立合急度可申付候」という一文で結ばれている。親子の間で仲違いした時は立合った者が必 ず履行させることを誓約したものであり、組合総代原右衛門、親類総代長左衛門が連署し、更に名主銀六が「相違無之」ことを書き添えている。之だけ慎重にし ておけば、家督を譲った親も老後の生活において安心出来たであろう。

 更にもう一例、1867年(慶応3)、運太郎(安藤)が栄之助に与え た書付がある。この書付によれば、伯父長左衛門の死後栄之助が家督を相続して来たが、病身のため身代を維持してゆくことが出来ず、隠居することとなった。 その家督を運太郎が受け継ぐことを承諾して、隠居する栄之助に隠居免(隠居の財産としてその家の動産不動産を分割してあてがうもの)を約束したものであ る。内容は次の通りであった。

一、田弐斗蒔 字前田ニ而 此小作米五俵也
一、畑八升蒔 字寺脇 外ニ金壱両ツヽ年々
一、山壱ヶ所 字かに沢東平
一、隠居庭畑
一、月々金壱両ツヽ
一、玄米七俵也年々〆拾弐俵也

  米が年に十二俵(四石八斗)、畑は八升蒔の広さだが何反何畝とは特定出来ない。しかし金が年一両づつついている。そして別に月々金一両づつとあり、金を合 算すれば年に十三両となる。その上字蟹沢に一山あって、なお隠居所には庭畑(庭の前面にある蔬菜の畑)がついている。かなり豊かに安定した生活が保証され ているように思う。伯父の家を相続したので、その子(運太郎の従兄弟)の退隠につき普通より手厚くしたのだろう。伊左衛門外六人が連署して、此書付の信憑 性を高めている。

 以上僧俗それぞれについて四例をみてきたが、財産・権限を次代に移譲して余生を送る身分としては充分な生活保証がなされ ていたように思われる。儒教思想の徹底していた江戸時代においては敬老の精神も浸透していたことであろうし、また「隠居免(隠免)」なる語が今日まで伝え られて来たところを見ると、書き立てるまでもなく一般的に行われていたとも考えられる。但し経済的なことを考えると誰でもと言う訳にはいかず、こうした確 りした隠免書付は或る程度の経済力を保持していた人々の間で実行せれたものであろう。

参考文献・資料
 吉田宗心寺文書No.62「現雉賢和尚江隠免書付」文政三年(1820)
 吉田宗心寺文書No.115「差上申隠居免議定一札之事」嘉永二年(1849)
 中村常男家文書No.194「賄料相渡シ申一札事」享和二年(1802)
 安藤文博家文書No.701「差出申書付之事」慶応三年(1867)

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