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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

人物・家

断金の交

              埼玉県師友協会幹事 小林博治

 昭和四十四年(1969)四月二十四日、田幡先生の告別式の席上、弔辞のために立とうとした埼玉師友会長大沢雄一氏は、急によろめいて倒れかけ、一瞬、一座の者をハッとさせた。足がひどくしびれている様子であった。
 埼玉県知事、衆参議員の経歴をもつ大沢氏である。あらゆる会合、儀式の経験はたっぷりある筈である。それをどうした訳だったのであろうかと、不思議に思った次第である。別席で大沢氏は「私は何にも知らず、しびれにも気がつかず座っていました。」と語ったが、このように大沢氏の心は、ただ全く、田幡氏を失った悲しみに強くとらえられ、全く我を忘れておられたのである。
 大沢氏の弔辞は、田幡家に大切にしまってあり、そのテープもある筈である。この弔辞には、皆、泣かされた。私達は人間の心と心の結びつき、その厳粛さに触れて、涙を流した。このようなことは私達の人生にも希有のことである。
 大沢氏は、埼玉県師友会報に「正師善友」と題して貴い宗教的体験を語り、安岡先生を正師、田幡氏を心友として敬している。大沢、田幡両氏の間には、他から、うかがい得ない深交があったのである。
 さてそこで、この両氏の出会いの機縁は、どんないきさつであったか。それを紹介しよう。
 昭和二十三年(1948)四月、菅谷村では新制中学の建設にからんで、鎌形小学校廃止の問題が起り、これを主張する議会側と、絶対反対の鎌形区民との間に、はげしい対立が生じ、鎌形出身議員の総辞職から、分村運動へと紛争は止めどなく発展した。
 田幡氏はこの時菅谷小、中学校PTAの会長をしていた。「喧嘩はいけない、話合いで。」これが田幡氏の信念だった。そして二、三の同志と協力して、裏面から両者の説得に奔走し、事件の解決に尽瘁(じんすい)した。
 「県の意見もきいて見たいから、君も説明役に行って呉れ」と言われて、私も田幡氏について浦和に行った。私は当時役場に勤めていたし、鎌形区民だったので、問題の焦点に近接していたわけである。
 斯くて、県庁で面会したのが、外ならぬ大沢雄一氏、当時の総務部長であった。これが両氏出会いの発端である。
 その年の秋、大沢部長は、農士学校に安岡先生を訪ね、洗心林で会食、懇談された。兼ねて村の学校問題を探るためであった。田幡氏と共に私も同席して、村の実情を説明した。部長は帰路、田幡氏の案内で、水害後の鎌形地区など実地に視察されたが、これが後の調停案の重要な資料になったようである。
 村の紛争はその後、部長の斡旋案を議会側が拒否し、青年層の蹶起により村会リコール運動など紛糾を重ねたが、二十四年(1949)の七月になって解決を見た。その内容は略々(ほぼ)部長の斡旋案に沿ったものであり、田幡氏の「喧嘩はよせ。」という主張が実ったものであった。両氏の親交はこの頃から始ったのである。
 昭和三十六年(1961)、埼玉師友会が結成され、全国師友協会(会長安岡正篤氏)と連繋(れんけい)し、安岡先生の提唱する「一燈照隅行」の組織的活動がスタートした。安岡先生の教学を、処世の根本信条とする田幡氏は、この会の結成にひたむきな情熱を傾け、創立準備会には太郎丸の自宅を提供し、知人、友人の多くを会員に糾合した。これは師友会の名簿を見ればよく解る。そして大沢氏を会長に推し、自ら副会長となって、会の運営に当ったのである。
 このように初対面から十余年、両氏の交りは年を重ねて深まっていったのである。此の間の事情は生前の田幡氏の話から推察できるが、今は詳説の暇がない。私は、田幡氏を「先生」という敬称で呼んでいたが、ふだんの対話はすべて「友達語」で敬語は用いなかった。先生は私の前でよく喋った方だと思う。大ていのことは、つつまず話してくれた。先生はいつも愉しそうに話し、私はよろこんで聞き手に廻った。学校は別だが小学校は同級生に当たっていた。それでお互いに遠慮がなかったわけである。尤も大沢、田幡両氏の友情は、私にはうかがい知る事の出来ない高い次元で結ばれていたのかも知れない。
 然しそれにしても、ここで、今一つ考えておきたいことがある。それは、大沢氏が知事、代議士として、政官界の第一人者であるし、田幡氏は歯科医を業とする一介の市井人である。どうしてこの両氏がこのような結びつきをしたのであろうか。この一点である。
 易経繋辞伝に、天火同人の卦を説明して、孔子が言っている。
「君子之道。或出或処。或黙或語。二人同心。其利断金。同心之言。其臭如蘭」*1と。つまり君子の生き方は、人柄と地位と境遇とにより、いろいろの違いがあり、或は世の中に現われ出でて官途に就くこともあり、或は自分の家にいて、世の中に現われ出ないこともあり、或は沈黙して何も言わないこともあり、或はいろいろなことについて意見を述べることもあり、其のやり方はまるで異っているのであるが、其の心は世の中を憂え、世の中を救いたいと思うことは同じである。二人の君子が心を同じくして事に当るときは、その精力の鋭利なことは、堅い金属をも断ち切るほどであり、心を同じくするところの二人の君子が相語るところの言葉は、その香りは蘭の花の如く奥ゆかしいものである(公田連太郎述、易経講話)と。
 この孔子の言葉は大沢、田幡両氏の関係を見事に説きつくして余すところがない。まことに両氏の交りは、君子の道の上に立ったのである。朝と野とその立場は違っていたが、志すところ、進む道は全く同一だったのである。そこにあの奥ゆかしい友情と断金の指導力が発揮されたのである。これがわが埼玉師友会の活動を推進して来たのであった。私は今、両氏の出会いの経緯を書いて、人生に於ける人と人との邂逅の不思議さに胸を打たれている次第である。

*1:「二人心同じうすればその利(と)きこと金を断つ。同心の言(ことば)はその臭(かおり)蘭の如し」

『田幡先生追悼誌』埼玉県歯科医師会発行 1971年(昭和46)2月

田幡順一:1908年(明治41)1月11日〜1969年(昭和44)4月22日。埼玉県歯科医師会長など歴任。

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