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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

人物・家

古老に聞く

関根正作氏の青春
     ——アメリカ渡航に失敗するの記

 これは古老に聞いた話である。然しこれは一人の人物の云はゞ多感なりし時代の自叙伝である。私がこの物語を聞いて日記に書き留めたのは昭和二十五年(1950)五月十日である。私は私の日記の一頁をそのまゝ此処に書き記した。古老はすでに此の世に居ない。その若き日を限りない夢と希望に燃えて明治の時代を颯爽と生きた人物はすでにこの世に居ない。
(関根昭二) 

 父は小川、母は川越へ行きしため、小生はまた留守居、午前中、小島屋さん(関根正作氏)が竹の子の代金を持って来たので閑だったから洋行せんとした心境について聞いてみたところ半生の物語りを始めた。
 小学校時代は常に二番の成績で熊谷中学に入学、寄宿舎に入る。その当時とすれば中学生は滅多に居らず吾は天下の秀才なりとうぬぼれ、二年生頃より遊び始め、三年の時、校長排斥運動をして退学、東京開成中学に転校、五年生の折、深川紅葉川女学校教員となり、英語、数学を教え、月給八円を支給さる。当時家より送られたる金と共に十分楽な生活をなせり。十ケ月にして止める、卒業後、早稲田専門学校に入る、二年の折、友人鹿山アメリカに行くことを勧む、家に帰りて父に相談せしに許さざりしも一週間ばかり、ねばり、許可なくば家を飛び出すなどと云えり、然れどもアメリカに行くには二百円の金必要なり、父、漸く許し、二百円は鹿山に直接送ることとせり、家を出るに際し父の金時計(二百円で買いしもの)を盗み、母よりは十四五円もらい、故郷を去る。金時計は上野の質屋に百五十円で売却、旅行許可の手続きをも友人にしてもらう。時しも小川町の関根氏同道を請ふ。よって承諾を与え七月の夏の日出航を決す。
二人は横浜にて一流の旅館に投宿、明日の船を待てり。
 鹿山氏は別の船中で一緒に逢ふことにする、三十円出して背広を新調し、荷物は既に船に積み込めり、明日は祖国日本を離る。二度と此の地を踏むことも計られず、今宵最後の宴を挙ぐべし、二人は直ちに杯を挙げぬ、飲み且食いて一時頃寝に就きぬ、目覚めて鹿山氏はどうしたかななど云いをるに女中来たり「ずいぶんゆっくりですね」「なにを云うか我には七時の船でアメリカヘ行くのだ」「あら、もう十時ですよ」二人は驚きぬ、確に時計は十時を過ぎること五分を示せり。あわてて船を見れど船はすでにあらず、二人は愕然とせり、荷物は船に積みたれば、荷物のみアメリカに行けるや、明日、直ちに行かんと思いしに、一ヶ月も経たざればアメリカ直行の船はあらずとのこと、二人はあきらめ荷物を送り帰すよう手続きをとり横浜を去れり、されどのう中多額の金はあり、ふと思いしは県人会の開かれし折、なじみたる芸者のことなり、直ちに芸者屋に至り大いに遊ぶ、そのうち冬過ぎる頃、芸者屋におかみの作、小春なる女とむつまじくなれり
 二人は楽しく遊ぶうち、金も次第に無くなり、小春は着物、指輪など売り払い、箱根、熱海と遊べり、物も売り払いタンスは空となり娘は叱られ、遂に二人は五月雨の降る日、七円の傘を買いて新橋より十時の汽車にて大阪の友を尋ねて行けり、友人は大阪にて貨物荷扱の仕事をなしをれり、家を見つけてもらい、そこに落ち着き彼の部下となりて働くうち女は腹が痛いと云へり、たいしたことなかるべしと思い、おかゆを炊きて枕元に置き勤めに出で、かくすること二・三日。一向に病状よくならず、金もなければ医者に見せる心もとなし、我慢しろそのうちよくなると云い聞かせて居たるが、ある朝、非常に痛むので体をさすり居たるに大分静かになりたれば「出かけるぞ」と云いて体をゆすりしに少し変なり、死人を見たことなければ死んだとは知らず、されど様子おかしければ友人の家に至り話をし医者に見せることにする。医者来りてみるにこれはもうとうに死せりと、驚けどすでに遅し、五円の死亡証明書をもらい、車を借り来て友人と共に棺に入れて烏森に運べり、病名は腹膜炎なり、火葬となす、骨を拾いて瓶に入れ、大阪に居るも無益なりと思い東京に帰り母なる人に告ぐ、「まことに申訳なし」と手をついて謝れど母なる人は怒り「この貧乏書生」とののしられたれど平に陳謝せり、五十円の葬式料を友人より借り受け母なる人に渡し、円満に解決せり、
さて学校はアメリカ行きのため退学し何もなすことなし。
 父の知り人なる子爵の家に行きしに山林管理の職に就かむことをすゝむ、その手続きをなし職に就かむとせしに田舎より父来たり、故郷に引き戻す。村に来たりては一銭の金も与えられ【ず】、東昌寺に在りたる役場の書記生となり二円ばかりの小遣銭をもらえり、されど東京恋しの情は止まるべくもなし、金なければ如何ともなし難し、そのうちに嫁の世話ありたれど何れも気に喰わず、十九人の娘と見合いし結局、最後の娘を妻として迎えぬ、それより家に落着き現在に至ると、
 彼は今日すでに七十才の老人となれり、昔を語ることかくの如し、
 余はこの話を聞きその数奇なる運命に感激しぬ、何時の日かこれを材料となして一編の小説を書かむと思へり。

『菅谷村報道』145号「古老に聞く」 1963年(昭和38)7月25日
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