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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

人物・家

今は亡き君を偲びて

              内田講

 私が小学校三年生になった大正三年(1914)四月一日(その頃は多分四月一日が入学式)校庭にいると急にあたりがざわめいていて校庭の西南側へ皆がゾロゾロと行き何か言っている。自分も行って聞いて見ると今日は宗順(田幡家の襲名で当時の自分等は家の呼び名と思っていた)の坊っちゃんが入学するのでどんな支度で来るかと皆はそれを見るために急な登りになっている坂道を見下ろしているのだった。自分も何となくその仲間に入って見ているうちに来た来た、ランドセル(後で知った呼び方)編上げ黒革靴半ズボン長靴下紺サージの折詰襟服、白カラー、ツバ長の学帽、いわゆる慶応スタイルの稍々(やや)小柄、細面の美少年、誰かにつれられて無心に登って来る少年、これが私の見た最初の田幡順一その人だった。当時一般の服装は筒袖の地縞織りに三尺、手作りの藁ぞうり、洋服とか靴とかは夢か絵で見た位の時兎に角皆一様におどろいたものだ。しかしそれもその筈、君の父君は明治二十二年(1889)市町村制施行の折村内随一の豪農として推されて初代村長を勤め君の入学当時は東京に出て事業に打ち込んでいたのだったから。私にはあの君が坂を登る時の姿が今でも絵でも見る如くはっきりと思い出され誠に感慨無量である。
 私が高等二年従って君が尋常六年の秋、それは文字通り運動の秋、秋季大運動会には部落リレーが唯一つ部落対抗の種目で人気の中心でありそれは尋常高等通じてのチーム作り故尋常高学年から高等二年までの者が部落毎に一団となって校庭で一応走り、更に各部落の神社、寺等の庭で大いに走ったのだった。その時の校庭での練習は部落の偵察戦でもあったわけ。その時君は私の事を「馬」等と言ってワイワイ騒いでいたったね。多分私が大股に走ったからだったろうね。太郎丸は小さな部落故人が揃わず君の力走も効無く一位にはなれなかったね。私の方は部落も大きい方だし人も揃ったので見事一位だったね。でもあの時の君の力走振りは衆人の目に残って「宗順は早いぞ」の印象はハッキリ残ってるよ。明けの三月(大正九年)(1920)私は浦和へ君は東京の中学、日歯【日本歯科医学専門学校】と夫々の道に別れたね。
 昭和になって私は八和田小学校の教師をしていた六年(1931)の一日、停車場通りでふと見た「歯科医田幡順一」の表札、私は一瞬立ち停り昔の恋人にでも会った様な気持でじーっと見詰めた記憶がありますね。その後左上奥歯のむし歯で御厄介になったのだったが、あの坂を登った時の美少年とは打って変わりガッチリしたヒゲの男に成長していたのには先づは驚き且つは嬉しく思ったものだった、その後あの歯は補修してその後全然痛んでいませんよ。
 敗戦後のあれは二十三年(1948)の秋からだったろうか。親子リレーの親として何回顔を合わせたったろう。君は少々太り気味で相当苦労したったね、話せば必ず、健康のこと、仕事と健康の関係、君はよく小学校時代の放課後校庭での走り合い、日歯当時の箱根駅伝を話題に上げ「俺は体力があればこそこの仕事ができるんだよ。歯科医はとても馬力が必要なんだよ。」と言ったものだったね。その君があの難病におかされ、夢の間の裡にこの世から消え去り逝かれた事は何とも残念でたまらない。よく人は若し信長があそこで討たれずに天寿を全うしたら日本の歴史は……というね。今此処も君が更に十年、二十年健在であったら発展途上の嵐山町にどの様に力を尽されたかを思う時、御遺族の方々の無念さは勿論、吾々多少なりとも因縁を持つ者には唯々残念の一語に尽きる。先は奥様からの御話を承り逆縁ながら粗辞を連ねてなつかしき君の追悼の一文とします。(七郷小学校同窓生、元中学校長)

『田幡先生追悼誌』埼玉県歯科医師会発行 1971年(昭和46)2月

田幡順一:1908年(明治41)1月11日〜1969年(昭和44)4月22日。埼玉県歯科医師会長など歴任。

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